捕虜から徳川家康の侍女に、キリスト棄教を拒み流罪となった女性「ジュリアおたあ」の数奇な人生
朝鮮出兵の際、朝鮮側の女性や子どもたちは捕虜として日本に送還されました。日本での彼女たちは奴隷や帰化して日本に住む選択を強いられます。
その中には本記事でご紹介する「ジュリアおたあ」もいました。彼女は徳川家康の侍女(側に仕える女性)となり数奇な人生を歩んだ人物。
今回は、捕虜から徳川家康の侍女になったジュリアおたあの人生をご紹介します。
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朝鮮から日本へ
捕虜となる前のジュリアおたあに関する記述は残念ながらありません。そのため、生まれや両親といった身辺情報は不明です。しかし、一説には李氏朝鮮の貴族の娘ではないかとの指摘もあります。
ジュリアおたあが日本へ連行されることになったきっかけは、天正20年(1592年)の文禄の役。平壌へ侵攻した小西行長に保護されました。小西家では養子として扱われます。
小西家が薬屋を稼業としていた影響もあり、ジュリアおたあは薬学の知識を深めていきました。
また、小西行長がキリシタン大名だったためにジュリアおたあも洗礼を受けます。この時に洗礼名の「ジュリア」を授かりました。
徳川家康の侍女になる
そんなジュリアおたあに、人生を一変するある出来事が訪れます。それは慶長5年(1600年)に起きた関ヶ原の戦いです。関ヶ原の戦いで父の行長は斬首。残されたジュリアおたあは、以前からジュリアおたあの器量を知っていた徳川家康に召し抱えられました。
ジュリアおたあは、駿府城の大奥にて侍女として家康に仕える傍らで、祈りや聖書を読むことを欠かさず行いました。また、夜の空いた時間で他の侍女たちをキリスト教に勧誘したとされています。
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