京都の清水寺は征夷大将軍・坂上田村麻呂が創建に深く関わった寺院だった【後編】
世界的観光地京都市の中にあって、ほぼ毎年トップの来場者を誇る清水寺。そんな清水寺は、平安時代初期、桓武天皇側近として蝦夷征伐に活躍した征夷大将軍・坂上田村麻呂が創建に深く関わった寺院でした。
【後編】では、清水寺創建の謂れと坂上田村麻呂の思いについてご紹介しましょう。
前編の記事はこちら京都の清水寺は征夷大将軍・坂上田村麻呂が創建に深く関わった寺院だった【前編】
清水寺草創のいい伝え
清水寺の創建は奈良時代末期の778年とされます。『清水寺縁起』によると、修業僧の賢心(後の延鎮上人)が夢のお告げにより山城国の音羽山(今の清水寺の地)で、金色の清流を発見。その源を辿っていくと、そこで長年、千手観音を念じつつ滝修業を行っていた行叡居士と出会いました。
行叡居士は賢心に、観音力を込めたという霊木を授け、
「わたしは長い年月あなたが来るのを待ち続けていた。この霊木で千手観音像を彫刻し、この観音霊地を守ってくれ」
と言い残して姿を消してしまいました。
「行叡居士こそ、観音様の化身に違いない」
と悟った賢心は、霊木で千手観音像を刻み、行叡の草庵に安置し、観音霊場を守りました。これが清水寺の草創とされます。そして、行叡居士が滝修業を行った滝が、その後「音羽の滝」と呼ばれ、今も清らかな水が湧き続けています。
賢心・田村麻呂の出会いと清水寺の創建
賢心が音羽山中に観音霊場を開いた2年後の780年のある日、賢心と坂上田村麻呂が運命的な出会いを果たします。
この日、田村麻呂は妻の高子の病気平癒の薬となる鹿の生き血を求めて、鹿を捕えるために音羽山中で狩りを行っていました。音羽の滝で修業中であった賢心は、田村麻呂に対し、観音霊地での殺生を戒め、観世音菩薩の功徳を説いたのです。
賢心の教えに深い感銘を受けた田村麻呂は観音に帰依します。そして、後日、十一面千手観音菩薩を本尊とする堂宇を寄進し、音羽の滝の清らかさから、その寺を清水寺と名付けたとされます。