名君と呼ばれた江戸時代の大名「保科正之(ほしなまさゆき)」の行った政治と出生にまつわるエピソード
日本史上、有名な人物はたくさんいますが、「名君」と呼ばれた人々はそれほど多くないのではないでしょうか。
裏切りや争いが多発した時代に生きていた人々や、そんな過去を知っている人々にとっては、名君と呼ばれた人物は救いにもなったのではないでしょうか。
そこで今回の記事では、素晴らしい名君として知られる江戸時代の大名「保科正之(ほしなまさゆき)」についてご紹介します!
保科正之とは、どんな人物?
保科正之は、江戸時代前期に活躍した大名であり、会津松平家の初代となります。彼は、徳川幕府2代将軍である徳川秀忠の子として江戸で生まれました。しかし彼の身元は明らかにされず、武田信玄の次女の元で育てられます。
そして、最終的には武田家の家臣であった保科正光(ほしなまさみつ)の養子となり、保科家を継ぐことになります。また、兄の家光に謁見した際、家光は彼をいたく気に入り、重用します。
そして、4代将軍・家綱の後見人のような立場となり、素晴らしい政治を行っていきます。
保科正之の功績
保科正之は、幕政・藩政どちらにおいても素晴らしい功績を残しました。
幕政では、文治世時を推進し、殉死禁止や末期養子の禁(大名の改易を減らすために行われていました)を緩和したりしました。
藩政に置いては、貧民救済制度を作るなどしました。さらに、高齢者に身分にかかわらず米を支給しましたが、これは年金制度の始まりとも言えます。彼がいかに、市井の人々のことを想って政治をしていたかがわかりますね。
ページ: 1 2