天才軍師・竹中半兵衛。豊臣秀吉の出世を支えた名将の生涯
みなさんは、竹中半兵衛(たけなか はんべえ)という人物を知っていますか?
戦国時代に名軍師として活躍し、豊臣秀吉の出世を支えました。彼は、かの有名な天才軍師・黒田官兵衛と並んで称される名将です。
今回は、そんな竹中半兵衛についてご紹介します。この記事では、竹中重治ではなく、通称の竹中半兵衛で記述を統一します。
竹中半兵衛とは?
竹中半兵衛(たけなか はんべえ(半兵衛は通称で、本名は竹中重治(しげはる)という)は、天文13年(1544)に美濃国大野郡大御堂城(現・岐阜県揖斐郡大野町)の城主である竹中重元の子どもとして生まれました。
永禄元年(1558年)には、父が岩手城主・岩手弾正を攻略し、永禄2年(1559年)には、菩提山城を築きました。半兵衛も父に従いました。この城は、堅固で広大な敷地がありました。
その後父が亡くなると、半兵衛は19歳(17歳とする説もあります)で竹中家の家督を継ぎました。その後、豊臣秀吉に仕えましたが、天正6年(1578年)三木城攻めに出陣中、体調不良を訴え、天正7年(1579年)にこの世を去りました。
半兵衛の死にあたり、豊臣秀吉は号泣したと言います。
竹中半兵衛の外見や性格は?
史料によると、竹中半兵衛の外見は「その容貌、婦人の如し」だったそうです。美男子で線が細かったといわれています。
また、大人しい性格だったようですが、学問や智謀だけでなく、武術の腕も優れており、剣術などに長けていました。まさに、文武両道ですね。
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