尊王攘夷運動が激しくなった幕末、粛清の対象となった「安政の大獄」の被害者たち【後編】
大老井伊直弼の意に反した者たちを弾圧した事件「安政の大獄(あんせいのたいごく)」。前編では、安政の大獄の被害者である梅田雲浜と橋本左内について紹介しました。
後編では、吉田松陰やその他に粛清された普段あまり名前が表に出てこない志士達について紹介します。
前編はこちら
尊王攘夷運動が激しくなった幕末、粛清の対象となった「安政の大獄」の被害者たち【前編】
吉田松陰
吉田松陰は、幕末に活躍した多くの志士たちに多大な影響を与えた天才でした。私塾である松下村塾(しょうかそんじゅく)で久坂玄瑞(くさかげんずい)、高杉晋作(たかすぎしんさく)、伊藤博文(いとうひろぶみ)他多くの志士たちを指導しています。桂小五郎(かつらこごろう)も、門下生ではないものの教えを受けた一人です。
吉田松陰は、脱藩や藩籍剥奪なども意に返さないほど、自らの志を曲げない性格の持ち主で、獄につながれることもいとわないほどの強硬な尊王攘夷論者でした。幕府が締結した日米修好通商条約に怒りを覚え、老中首座・間部詮勝(まなべあきかつ)の暗殺を計画しましたが未遂に終わりました。
安政の大獄では、梅田雲浜などとの関わりの疑いで捕らえられます。詮議の結果、疑いが晴れたものの、志を貫き間部詮勝の暗殺計画を進んで自白して斬首となりました。あまりにも生き急いだ29歳の生涯でした。
その他に粛清された人物 略歴
梅田雲浜や橋本左内、吉田松陰の他にも安政の大獄で粛清された人物達がいます。あまり名前は表に出てきませんが、安政の大獄の引き金と言われる飯泉喜内や水戸藩家老の安島帯刀など、略歴も含めて紹介します。
飯泉喜内(いいいずみきない)
始めは土浦藩藩士、後に上京して江戸時代後期の公卿三条実万(さんじょうさねつむ)の家士となります。梅田雲浜や橋本左内らと将軍後継問題で一橋派に属し、ペリー来航に関しても幕政を激しく批判。捕縛されたのは、ロシア人との接触という程度の嫌疑でしたが、押収された書類に多くの尊王攘夷志士たちとの手紙があったことから、危険分子とみなされ斬首となります。享年55歳。
この押収された書類が安政の大獄のきっかけとも言われています。
頼三樹三郎(らい みきさぶろう)
幕末の儒学者で、20歳ごろから尊王攘夷の志を持つようになります。30歳で母が亡くなると、自重していた尊王攘夷運動に歯止めがかからなくなり、家族を捨ててのめり込みます。
3年後、将軍後継で朝廷に一橋慶喜擁立を働きかけ、強烈な幕政批判を行います。その後、安政の大獄で捕らえられ斬首されました。享年35歳。