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戦国時代、いかなる権力にも屈せず火炎の中に没した気骨の禅僧・快川紹喜の生涯 【その2】

戦国時代、いかなる権力にも屈せず火炎の中に没した気骨の禅僧・快川紹喜の生涯 【その2】

織田信長の命により、百数十名の僧侶などがいた恵林寺に火を放たれた際、冷戦沈着に身動きせず炎の中で没した快川紹喜

人望に厚く、能力・学識に優れた僧として注目を集め、武田信玄から厚い信頼を寄せられていました。

そして、織田軍の焼き討ちに屈しなかった快川紹喜。ここまでのお話は【その1】もぜひご覧ください。

戦国時代、いかなる権力にも屈せず火炎の中に没した気骨の禅僧・快川紹喜の生涯 【その1】

戦国末期、武田信玄の信任厚く、皇室からも国師の称号を得た高僧・快川紹喜(かいせんじょうき)。臨済宗妙心寺派の法灯を守るため、斎藤義龍、織田信長との確執にも一歩も引かず、最後まで信念を貫いた気骨…

快川紹喜の名声を聞いた信玄により恵林寺へ

快川の出自と武田信玄との出会い

快川紹喜は、12歳で仏道に入門。当時から人望に厚く、能力・学識に優れた将来有望な若者として注目を集めていました。

35歳のとき、師である仁岫宗寿(妙心寺第27世)から「快川」の道号(注1)を与えられ一寺の主となったのです。

※注1:僧侶が付ける号。俗世でいう苗字。

1551(天文20)年に仁岫亡き後、美濃国大桑城下の南泉寺の住持となり、快川の活躍は顕著となっていきます。

1553(天文22)年、かねてから快川の名声を耳にしていた甲斐国主・武田信玄から恵林寺の住持として招かれ美濃国を離れました。

しかし4年後、美濃崇福寺の住持が途絶えたため、信玄の許しを得て美濃に戻り、崇福寺住持に就いたのです。

2ページ目 「永禄別伝の乱」でみせた卓越した手腕

 

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