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「本能寺の変」後、豊臣秀吉が驚異的なスピードで行軍したという“中国大返し”ができた理由

「本能寺の変」後、豊臣秀吉が驚異的なスピードで行軍したという“中国大返し”ができた理由

織田信長の死を知った豊臣秀吉が3万もの兵を引き連れながら1日50キロという驚異的なスピードで行軍したという“中国大返し”。

この速すぎる反応に、後世の人々は「秀吉本隊だけが先に行軍し、他はあとで秀吉を追ってやってきた」とか「秀吉は信長の死を事前に知っていた」などの理由を考えました。

しかし、記録によると秀吉はこれよりさらに速く行軍していた記録があります。それは、賤ケ岳の戦いでのこと。相手は、秀吉のライバル・柴田勝家でした。このとき秀吉は1万5000の兵を引き連れながら、約52キロの道のりを僅か5時間ほどで駆け抜けたのでした。

時速に計算すると、約10キロ。その余りの速さに、秀吉の登場を予想していなかった柴田軍はすっかり油断をし、錯乱状態となって敗走したのでした。

今と違って、自動車も鉄道もなかったあの時代、秀吉はなぜこれほどまでのスピード行軍を実現できたのでしょうか。

それは、行軍に必要不可欠な食糧・武器を、道中で調達できるようにしたからでした。

秀吉はまず先発隊を賤ケ岳に向けて出発させて、その道中の村々に協力を要請しました。つまり、恩賞と引き換えに食糧・武器を準備させたのです。そして、本隊の方はほとんど荷物を持たずに出発。道中の村々で、村人たちから握り飯やたいまつなどの必要なものをもらい、休まずに行軍。

その結果、驚異的なスピードで敵陣の元へと向かったのでした。かつて鬼柴田といわれるほどの強さを誇った柴田軍。まともに戦うには、敵の意表を突くしか勝ち目はなかったのではないのでしょうか。

参考

小和田哲夫 『賤ヶ岳の戦い「兵站線の確保と機動力」』 歴史群像デジタルアーカイブス

 

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