混浴パラダイス!?めくるめく江戸時代の「湯屋」の内部をちょっぴりのぞき見
「火事と喧嘩は江戸の華」と申しますが、江戸時代は木造建築であったため、本当に火事が多くありました。また、今のように消火技術も進歩していませんでしたので、ひとたび火事が起こってしまうと、早期に鎮火する事が難しく、町全体がたびたび灰燼に帰すという事も少なくありませんでした。
そのため、江戸時代は個人の家の中にお風呂を作る事が基本的には禁止されていました。なぜ火事と個人宅のお風呂の禁止が関係あるかというと、当時のお風呂は下から火を焚いてお湯を温めていたため、お風呂も出火原因になりやすかったのです。加えて当時は今と違って水や燃料が非常に貴重なものでもありました。
というわけで、江戸時代のお風呂は猫も杓子も、富める者も貧しい者も基本的にはみんな「銭湯」でした。そして当時は「銭湯」ではなく、「湯屋(ゆや)」と呼んでいました。
今回はそんな「湯屋」の内部を、ちょっぴりのぞき見してみましょう!江戸時代の銭湯文化に関しては以下の記事も合わせてどうぞ
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湯屋はリーズナブル!
湯屋の営業時間はだいたい朝の8時から、夜の8時まで。料金は大人がだいたい8文(約120円)、子供が5文(約75円)。蕎麦1杯がだいたい16文でしたから、それよりリーズナブルなんていいですよね。しかも、お湯好きの江戸っ子のために「羽書」という1か月有効なフリーパスポート的なものまでありました。
「羽書」は大人1人で148文。1日に最低でも2回、多ければ4~5回も入浴したという江戸っ子にとって、1か月お風呂入り放題で148文はかなりお得でした。
基本混浴だった湯屋
今では驚くべきことに、江戸時代は基本的に混浴が普通でした。
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江戸っ子たちは大変明るくおおらかで、裸である事が恥ずかしいという観念がありませんでした。当時の日本を訪れた外国人の記録によると、風呂屋の傍を通った時に入浴中の男女が裸で風呂から飛び出してきて当然のように裸のまま立っていたのだとか。
彼らは江戸の人々の事を罪を知らないアダムとイブのようだと評し、その純真無垢さに驚いたそうです。