織田信長の残虐性を表す逸話「比叡山焼き討ち」実はそんなに酷い被害を被ったわけではなかった?
織田信長の残虐性を表す逸話の一つとして伝えられているのが、比叡山焼き討ち。堂塔坊舎が燃やされ、3000人ほどが虐殺されたといわれていますが、近年の発掘調査などによって、そんなに大規模な焼き討ちではなかったと考えられてきました。
1981年に滋賀県教育委員会が行った調査によると、大規模な火事があったのにも関わらず、焦土の跡や人骨など物的証拠が見つからなかったとされています。さらに焼き討ちされる前年に残された記録によれば、当時の僧侶たちは堕落しており、堂塔も坊舎も信長が焼き討ちにかける頃までにはすでに荒れ果てていたといいます。
1571年、浅井・朝倉両氏を匿っていた比叡山延暦寺に対し、業を煮やした信長は焼き討ちを開始。ところがそのとき、比叡山にはまともな僧侶がおらず、権威だけが残っていました。
そんな有様を見た信長は、比叡山の麓にある坂本という町の襲撃を決断。坂本は比叡山を降りた僧侶たちが仏教の教えを盾に住民たちを支配しており、信長はそんな僧侶たちを虐殺し、建物に火をつけたのでしょう。
信長としては、反逆者を成敗するという見せしめの行為だったのが、話が広まるにつれ尾ひれがつき、大げさになっていたのだと考えられます。つまり、比叡山の焼き討ちは確かに存在しましたが、従来言われていたものよりずっと小規模なものだったのです。
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