明智光秀は本能寺の変の後に亡くなっていなかった説。天海になって生き延びたのは本当なのか?:2ページ目
謎が多い天海の人生
天海の前半生は不明な部分が多いです。
天海の直弟子である胤海が記した「東叡山開山慈眼大師縁起」によると、天海は陸奥国の蘆名氏の生まれだと書かれています。しかし、足利将軍の落胤説があるとも記されており、当時から謎が多い人物だったのでしょう。
そんな天海に弟子が尋ねたところ、「生まれも年齢も忘れてしまった」と語っているそうです。身近な人にさえ自分の出自を語ろうとしない天海の存在は、神秘的なものだったのではないでしょうか。
また、天海の年齢も諸説ありますが、かなりの長寿であったと伝わっています。現在では1536年生まれ、没年が1643年が定説となっており、なんと数え年で108歳だったそうです。
天海が家康と出会ったのは、家康が江戸城に入る前年(1589年)だったと言われています。そうして高齢ながら家康・秀忠・家光と、天海は徳川三代将軍に仕えたのです。
徳川幕府を江戸に置いたのも、天海の意見を家康が尊重したからだと伝わっているので、まさに徳川幕府の礎を築いた立役者なのでしょう。