世界で初めてサケの回帰性を発見し養殖に成功した江戸時代のサムライ・青砥武平次:2ページ目
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まず、サケが遡上する三面川に分流を設け、そこにサケの産卵に適した場所に蔦や柴で柵を造ります。すると、サケが産卵のために本流に進もうとしても、それが阻止されてしまうため、その場で産卵せざるを得なくなってしまいます。これは「「種川(たねがわ)の制」といわれました。
こうして村上藩では30年に及ぶ川の大工事が行なわれました。その結果、導入前には多くても200両から300両だった漁獲高が、導入後は1,000両を越えるまでになりました。増殖事業は見事成功し、村上藩はサケの恵みで豊かになったのです。
今でもサケをさばく際、村上ではお腹を全て切らず、中ほどの一部を残すようになっています。それは「大切なサケを切腹させてはならない」という、この地ならではの風習と伝えられています。
さて、気になる武平次のその後です。村上藩に工事を進言し、大成功を収めたわけですから、さぞ大出世しただろうとおもいがちですが、実は武平次、工事が完成する6年前の天明8年、76歳で急逝してしまいます。
武平次の意志はその後も後進たちに引き継がれ、さまざまな研究が重ねられ、技術がとりいれられた結果、明治17年には鮭の遡上数が73万7378尾を数えるようになりました。これは単一河川では日本最高記録だそうです。
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