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改元は江戸時代だけでなんと35回!当時は改元ってどう行われていたの?

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江戸時代の元号の選び方は?

改元は朝廷か幕府のどちらかが申し入れ、合意に達してから進められました。朝廷で年号勘者を定め数十案を提出させ、公卿の審議を経て天皇に目を通していただきます。

勘者とは、朝廷の諮問をうけ、吉凶などを考慮し儀式の日時や法令等を調査し上申する者のこと。なんとあの菅原道真の子孫が代々関わっていたといいます。

朝廷は絞り込んだ数案を幕府に提出。

幕府は老中や儒学者で協議したうえ、最終的に決定しました。といっても形式だけで、朝廷が提案する際にあらかじめ順位付けをしており、幕府は朝廷が一押ししたものを追認することがほとんどでした。

いよいよ元号が決定されると、幕府は江戸滞在の諸大名を総登城させ、新元号を発表。各藩を通じて全国に知らされました。知らせが津々浦々に行き渡るまで一ヶ月近く要したと言います。

実は元号という存在が一般庶民に浸透したのも、この江戸時代から。それは高い識字率が後押しした結果で、庶民は干支と合わせて暦を利用していたとのこと。

江戸では元号を題材にした狂歌や川柳が流行し、「明和」から「安永」に代わった時は「年号は安く永くとかはれども、諸式高くて今に明和九(めいわく)」などと詠まれました。

新しい元号を紙に書き付け売り歩く、号外で金銭を取るような商売も。なかには新元号を間違えたり、改元していないのに改元した、という誤報もあったといいます。

今も昔も改元で一騒動あるのは、変わらないようです。

参考文献:『日本年号史大事典』ほか

 

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