徳川吉宗の視点でかんたん解説!8代将軍継承問題と大奥のドロドロ派閥抗争 その1:2ページ目
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将軍候補者が次々に死去
しかし、可能性ゼロがゼロではなかったのです。宝永2年(1705)、吉宗22歳の時、長兄、父、さらには次兄までもが次々に急死。急遽紀伊55万石の藩主という大きなお鉢が吉宗に回ってきたのです。
しかしそれでも将軍の座に就くにはまだまだ遠すぎる存在のはずでした。しかし6代将軍・家宣が在位わずか3年で病死。更に7代将軍・家継がわずか8歳で死亡した事により、家光から続いていた徳川宗家の血はついに途絶えました。
尾張徳川家でも不審死
そこで継承権第1位は吉宗が藩主の紀伊徳川家・・・ではなく、御三家トップの尾張徳川家に移ります。しかし尾張でもすでに事件が起きていました。
6代将軍・家宣の死後まもなく、尾張徳川家の長男・徳川吉通が25歳の若さで不可解な悶絶死を遂げていたのです。そのため当時の尾張藩主の座は次男の継友が継いでいました。
一説によると、次男の継友があの天英院と親戚関係にあったため(継友の妻が天英院の姪っ子)、少しでも縁の近い者を次期将軍にしたかった天英院が指図して吉通を毒殺させたとか・・・。
このままいくと8代将軍はこの尾張藩の継友に!どうする吉宗! (その2に続く)
参考文献:堀口茉純「TOKUGAWA15」草思社
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