日本に「報道写真」という新しい写真の概念を持ち込んだ人物「名取洋之助」:2ページ目
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あるとき、ウルシュタイン社の特派員として中国にて取材活動を行いますが、その帰りに東京に来ていた洋之助は、ヒトラーの外国人排斥政策の影響で、そのまま日本に滞在し続けることになります。
そのような状況下において洋之助は、日本発の世界に通用するグラフ誌を企画します。若い頃は文学や演劇にものめり込み、人一倍美的感性の強かった洋之助は、ドイツにいた頃、日本の雑誌のクオリティの低さに、歯がゆい思いをしていたのです。
そして、「日本工房」なる組織を作り、世界に日本を紹介するグラフ誌、「NIPPON」を創刊します。
徹底したクオリティの追求、容赦のないダメ出し、そして贅沢なコスト。写真に対しても、湯水のごとくフィルムを使い、気に入らない写真はカメラマンの目の前で破り捨てる徹底ぶりです。
そのような贅沢かつスパルタな環境の中から、土門拳や藤本四八をはじめとする戦後の日本を代表する報道カメラマンが育っていきました。
持ち前のバイタリティと裕福な家庭事情、そこからくる人脈を最大限駆使し、最終的には軍や国のバックアップを得て、当時としては超贅沢なハイクオリティ誌を、終戦の前年まで作り続けました。
現在、携帯カメラやデジカメの普及で、「写真」は空気のように存在し、その意味についてわざわざ思いをめぐらすこともあまりありません。
しかし今から90年ほど前、「物語るための写真」の在り方を追求し、写真の新たな活用の仕方とその実践に邁進した人物がいました。
誰でもが、自由に写真を撮ってSNSにあげることのできる便利な時代。こんな現代であるからこそ、改めて考えながら「撮ることの意味」について見直してみたいですね。
参考書籍
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