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竜馬も”おかあ”と呼んで慕った。幕末期に討幕派志士を支えた寺田屋の女将・お登勢

竜馬も”おかあ”と呼んで慕った。幕末期に討幕派志士を支えた寺田屋の女将・お登勢

幕末の様々な騒動の舞台となる寺田屋

1862年(文久2年)、寺田屋騒動が発生。薩摩藩攘夷派藩士と薩摩藩主・島津久光が斬り合いを行なった際、お登勢もその場にいて3歳の次女を竈に隠して帳場を守ったと伝えられています。事件後、寺田屋に薩摩藩からの見舞金が入り、お登勢は、使用人に命じて即座に畳や襖を取り替えて、すぐに営業できるように整えたといいます。

1866(慶応二)年の1月21日、女将のお登勢が切り盛りしている寺田屋に新選組がやってきました。寺田屋は当時、薩摩藩士の常宿になっていたことで取り締まりの対象になったのでした。このとき、宿泊していた長州藩士の三吉慎蔵は、お登勢の機転で難を逃れることができたといいます。

また、同年23日、薩長同盟をまとめた龍馬が寺田屋に宿泊しました。暁の八ツ時(午前二時頃)、寺田屋は幕吏に囲まれてしまいました。幕吏に呼び出されたお登勢が表に出ると、数十人の捕方がうしろ鉢巻に抜身の槍をもって物々しく構えていました。宿の二階では龍馬と慎蔵が話し込んでおり、竜馬の妻・おりょうは入浴中でした。異変に気づいたおりょうは、2階の龍馬に知らせ、このときは難を逃れます。

表ではお登勢が幕吏と押し問答をして必死で捕方を抑えようとしていました。ところが捕方に踏み込まれてしまい、竜馬はピストルで応戦。寺田屋を逃げ出します。

龍馬は自分を可愛がってくれたお登勢のことを、”おかあ”と呼んで慕っていたと伝えられています。龍馬がお登勢にあてた手紙で現在知られているものの多くは、彼女に頼み事や泣き草を聞いてもらうようなものだといいます。

1877年(明治10)年、死去。墓所は寺田屋に程近い伏見松林院にあります。

アクセス

  • 所在地: 〒612-8043 京都府京都市伏見区本材木町676
  • 電 話:075-611-1443
 

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