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たとえ右目に矢が刺さろうとも――武士が生命より大切なもの、鎌倉権五郎景正の武勇伝

たとえ右目に矢が刺さろうとも――武士が生命より大切なもの、鎌倉権五郎景正の武勇伝

よく「鎌倉は源氏の街」とおっしゃる方がいます。鎌倉幕府を開かれた源頼朝公の偉大さがわかりますが、彼が鎌倉に攻めて来る前、この地を拓き、代々治めてきた鎌倉一族は坂東平氏の流れを汲んでいました。

今回はそんな鎌倉一族の中から、後三年の奥州征伐で大活躍した鎌倉権五郎景正(かまくら の ごんごろうかげまさ)の武勇伝を紹介したいと思います。

初陣で右目を負傷、後頭部まで矢が貫通!?

時は平安・永保三1083年の秋、陸奥守に任官した八幡太郎こと源義家(みなもと の よしいえ)が、奥羽(東北)地方の豪族・清原氏の内部抗争に介入するべく出兵。

これがいわゆる「後三年の役」ですが、この軍勢に16歳の若武者が一人、従っていました。

彼こそが鎌倉権五郎景正、これが彼の初陣(戦デビュー)と伝わります。さて、権五郎は最前線で勇敢に戦いますが、敵方の武将・鳥海弥三郎保則(とりのうみ やさぶろう やすのり)に右目を矢で射抜かれてしまいます。

聞いただけでも痛そうですが、右目に刺さった矢はそのまま後頭部から突き抜けたと言うから尋常ではありません。

しかし権五郎は一歩もひるまず、すぐさま矢を射返して弥三郎を討ち取り、その首級を上げました。

助けようとした伯父さんに!?

さて、意気揚々と戻ってきた権五郎の姿を見て、伯父にあたる三浦平太郎為次(みうらの へいたろうためつぐ)は血相を変えて驚きました。

「お前、目に矢が刺さっているじゃないか!待ってろ、今すぐ抜いてやるからな!」

と権五郎を寝かせるや、両手で矢柄(やがら。矢の胴部分)をつかみ、権五郎の顔に足をかけて抜こうとします。

すると、権五郎はいきなり抜刀、平太郎の草摺(くさずり。鎧の太ももを保護する部分)目掛けて突きかかりました。

「この野郎、いきなり何をするんだっ!」

平太郎が怒るのも当然です。なにしろ、助けて(矢を抜いて)あげようとしたら急にキレて襲ってくるなんて、とっさによけたからいいものの、一つ間違えば同士討ちです。

しかし、権五郎にも言い分がありました。

2ページ目 自分の生命が危機にあろうと、武士の尊厳はそれ以上に大切

 

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