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内臓を掴み敵に投げつける壮烈な最期…村上彦四郎義光が戦場で魅せた「切腹の手本」

内臓を掴み敵に投げつける壮烈な最期…村上彦四郎義光が戦場で魅せた「切腹の手本」

壮烈!村上彦四郎義光の最期

豊原国周「太平記豪傑之一人 村上彦四郎」文久元1861年

さて、蔵王堂に一人残った義光は、護良親王から賜った鎧を身に着けると、程なく迫り来た幕府軍を前に言い放ちます。

「天照大神(おまてらすおおみかみ)御子孫、神武(じんむ)天皇より九十五代の帝(みかど)、後醍醐天皇第二の皇子 一品兵部卿(いっぽんひょうぶのきょう)親王尊仁(たかひと)、逆臣(げきしん)が為に亡(ほろぼ)され、恨(うらみ)を泉下(せんか)に報(ほう)ぜん為に、只今(ただいま)自害する有様(ありさま)見置きて、汝等(なんじら)が武運 忽(たちまち)に尽て、腹を切らんずる時の手本とせよ」
※『太平記』巻第七 吉野城軍事(よしのじょう いくさのこと)より。

【大意】
天照大神の子孫である神武天皇から95代目となる後醍醐天皇の次男・(官位・称号など略)尊仁(護良親王の本名)が、謀叛人に滅ぼされる無念をあの世(黄泉)から晴らす(祟る)ために自害するから、お前たちの武運が尽きた時の(皇族に逆らう罰当たりなお前らの武運、どうせすぐに尽きるだろう)手本とするがいい!

言い終えるなり義光は腹を切り、自分の内臓をつかみ出しては敵に投げつけ、投げつけられる内臓がなくなると太刀を口にくわえて突っ伏し、喉に刃を貫いて絶命したそうです。

ところで、鎧を着た状態で腹を切るのは大変なのでは?という疑問もあると思いますが、おそらく甲冑をすべて着込んだ状態ではなく、脇楯(わいだて)のみ着装した小具足(こぐそく)姿だったものと考えられます。

明治三十二1899~三十九1906年『故実叢書』鎧着用次第より、小具足姿(右の人物)。

それにしても、自分の腹を切るだけでも大変でしょうに、そこから内臓をつかみ出して敵に投げつけるとは随分グロテスクな話ですが、当時の武士たちは、それこそが「勇気ある最期の振舞い」として高く評価・賞賛する価値観を持っていました。

村上彦四郎義光の墓、そして護良親王のその後

かくして吉野山の蔵王堂に果てた義光ですが、幕府軍が遺体を検分すると、身代わりであったことが判明。

二階堂貞藤らは護良親王を取り逃がした腹いせに、義光の遺体を打ち捨ててしまいましたが、それを憐れんだ里人たちは、蔵王堂より北西約1.4キロの場所に遺体を葬り、現地は「村上彦四郎義光の墓」として今日に伝わっています。

一方、吉野山から脱出した護良親王の一行が安全な場所まで逃げ延びる道中、先ほど父と惜別した村上義隆は幕府軍を相手に奮戦し、最期は満身創痍に力尽き、父と同じく自害したと伝わります。

作者不明(14世紀)・護良親王出陣図(馬上の人物)。

そうした忠臣たちの献身的な活躍に応え、護良親王は見事に捲土重来(リベンジ)を果たし、鎌倉幕府を滅ぼす上で重要な役割を演じました。

義光たちも草葉の陰から喜んでいたでしょうが、その後、同じく鎌倉幕府を滅ぼした功労者の一人である足利高氏(後の尊氏)らと対立し、また、手柄を鼻にかけた横暴などにより、やがて身を滅ぼしてしまうのでした。

3ページ目 村上社の「撫で身代わり様」として

 

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