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【小説】国芳になる日まで 〜吉原花魁と歌川国芳の恋〜第3話:3ページ目
思いもよらない展開に男の下心はがくりとしぼんだが、女の頼みは断らなかった。女が嬉しそうに話す故郷の山村の話を聞きながら、筆一本でその身体に絵を描いた。
土のにおいが吉原遊廓と違って青臭かった事。路傍の名もなき草花に子供たちで好き好きに名をつけた事。空を翔けるトンビに願いを掛けたり、カラスに山のふもとの里の知らせを訊(たず)ねてみたりした事。花々にとまる虫たちを眺めた事。朝陽に微笑むように咲き、夕暮れに口をつぐむ照り降り花が墓に群生していた事。・・・・・・
「ポッポ花も咲いてたの」
とその新造はぽつりと言った。
「ポッポ花?」
「うん。廓内(なか)では一度も見かけた事ねえの。やっぱりおいらの山にしか咲かねえのかな」
新造は、いつの間にか子供っぽい話しぶりに戻っていた。故郷では自分の事をおいらと呼んでいたのだろう。
「そうかもな。わっちもポッポ花てえのは、聞いた事ねえな」
「そっか」
新造の背中が少し寂しそうにしょげて見えた。
男が小半刻ほどで描き上げたのは、女が話した草花やトンビなど山村の生き物たちと、その中央に宿る慈愛に満ちた観音菩薩の姿であった。
少しも手を抜いたつもりはない。
正月だというのに、描き上げた後には汗が散った。
筋彫りが仕上がるのを待たずに辞去したために新造の反応は見ていないが、
(泣くほど、気に入らなかったのか)
まさか彼女の姉貴分が報復に来るとは考えもしなかった。
(逃げよう。・・・・・・)
咄嗟にそう思った。
もしかすると用水桶の陰に筋骨隆々な男が腕を鳴らして待ち構えているかもしれない。
軽くなった天秤棒を担いで、素早く立ち去ろうとしたが、
「待って、行かせない」
姉女郎が華奢な身体をめいっぱい広げてとうせんぼしたので、足を止めた。
「分かった。わっちが悪かったよ。精一杯描いたが、泣かせッちまったなら謝る。悪かった」
「ええ」、
女は急ににっこり笑って言った。
「ありがとね」。
「え?」
男は思わず訊き返した。
「あの子、自分の身体が初めて好きになれたって喜んで泣いてたの」
女は可愛いあごを嬉しそうにクッと上げた。
「ほんにか」
騙された。
男は、悔しいような安心したような顔で鼻をこすった。
「勿論本当の妹なんかじゃあないの、こんなところだから。それでも美のるは」、
と、女は妹女郎の事を「美のる」と呼んだ。
「五つで女衒(せげん)のオンジに攫われてきた、あたしのいっち大事な妹。楼主は引き取るのを断ろうとしたけれど、あたしが面倒見るから美のるをうちの見世に置いてくれって頼んだんだ。それが、先日の水揚げ以来、自分は汚れちまったんだってすっかりしょげちまって困っていたの。でもあんたのお陰で、身体に故郷の花が咲いたの観音様が宿ったのって大はしゃぎ。今頃きっと、素っ裸で皆に自慢してる。子どもに戻ったみたい。これであの子、廓内(なか)でしゃんと生きていける。ほんにありがとう。・・・・・・」
女は繊手を合わせて拝むようにして礼を述べた。それから、細い指で渋紙籠の中の凧を指して訊いた。
「ねえ、そこにあるの、見ていい?」
「いいよ」
男が頷くと、女は籠の中を覗き込んで一つ取り上げ、空に透かすように高く掲げた。袖が落ち、余分な肉のない子どものような細腕が露になった。その腕があんまり白くて、男の目は思わず吸いつけられた。
「今年は、水滸伝なんだね」
女が不意に、昔から知っているような口ぶりでそう言った。
「え?」
男は聞き違えたかと思った。凧を売った子どもの顔はだいたい覚えているが、この女には凧を売った覚えも言葉を交わした覚えもない。
「子どもの頃から毎年、おっ母さんに見つからないように抜け出して、物陰に隠れて見てたんだ」
「そうか、それでわっちゃア覚えてないんだな」
「あんた、実は真面目でしょう」
「え?」
「相変わらず、つまんない絵だもん」
女が微笑みながら言った言葉に、男は驚いた。
「つまんない?」
「うん」、
筆は緻密で上手いけれど、どこか生真面目さが抜けない。絵が、むっと息を詰めていて苦しそう。
「上手いんだからさ、もっと面白い絵を描いてよ」
そうしたらあんた、江戸一番の凧売りになれるよ。
女はそう言って、いたずらっぽくきひひっと笑った。
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江戸時代の吉原遊廓の幼い少女たち「禿(かむろ)」が一人前に女郎デビューするまで
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