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こんなにいた!遣り手、若い衆…吉原遊廓の妓楼(女郎屋)の中に暮らす人々

こんなにいた!遣り手、若い衆…吉原遊廓の妓楼(女郎屋)の中に暮らす人々

前回は吉原に並ぶ妓楼(ぎろう)の中から一つの女郎屋に焦点を当て、その内部を紹介しましたが、今回は妓楼(女郎屋)の中に暮らす人々を紹介します。

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楼主

妓楼の主人は楼主と呼ばれました。妓楼は2階建ての建物が多く、2階には座敷などがあって客を通し、1階の奥に楼主とその家族の生活スペースがありました。たいていは楼主とそのお内儀(妻)を中心とした家族経営で、お内儀がいれば当然子供もおり、そこには他と変わらない家族の営みがありました。

女郎を売るという職業上、楼主は「人の持つ8つの徳を忘れた非情な人間」という意味の「忘八(ぼうはち)」とも呼ばれました。実際、悪い人ではなくとも女郎屋の経営は生半可な覚悟でできるものではなく、経営者としてシビアな側面が必要であった事は間違いないでしょう。しかし女郎に全く感謝がなかったかといえばそうではなく、毎年正月には女郎たちに新しい小袖をプレゼントしていた事も事実でした。

画像:楼主、お内儀の図
北斎「吉原遊廓の景」(部分)ボストン美術館蔵(文字加筆・筆者)

2ページ目 「遣り手ばばあ」とはここから。女郎の世話を焼く中年女性・遣り手(やりて)

 

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