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横綱だけど弱い大関?初めて横綱として番付に載った西ノ海の複雑な事情とは?

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横綱の誕生と吉田司家

古くは奈良時代から朝廷で行われていた相撲節会。吉田司家と京都五条家はその相撲節会を執り行う役目を負った司家でした。朝廷による相撲節会が衰退し武士による相撲興行が盛んになると、吉田司家は熊本藩・大名家の細川家に仕えます。

19世家元・吉田追風が、寛政3(1791)年の将軍の上覧相撲を機に、谷風梶之助と小野川喜三郎という人気力士に注連縄をつけて土俵入りさせるというデモンストレーションを思いつきます。これが大人気となり、瞬く間に全国に伝播します。

吉田司家の勢いに権威失墜を恐れた京都五条家も、負けじと横綱免状を発給し始めます。対抗する吉田司家は幕府に掛け合うなどしてこの免許権争いに勝利し、吉田司家の横綱免状が正式なものとなりました。

横綱だけど弱い大関!?

横綱として初めて番付に載った西ノ海は、明治23(1890)年に吉田司家から横綱免許をうけました。しかし新横綱の場所となった5月場所は、前場所の成績が「張出大関」並だったため、他の者が正大関として番付に載ることになってしまいます。張出大関とは、大関が3人以上存在した際に、番付表の欄外に掲載された成績下位の大関のことで、1994年名古屋場所から廃止されています。

当時の横綱は番付にないため大関が最高位です。西ノ海は横綱の称号があるにも関わらず、大関では下位の扱いになったことを不満としたため、吉田司家は番付に「横綱」と明記することにしました。

これ以降、横綱は権利や称号ではなく、地位としても見なされるようになっていきます。

横綱と番付の間には、こういった複雑な背景がありました。長い相撲の歴史のなかで、横綱が番付に載るようになったのは比較的最近のことなのですね。古い番付を目にすることがあれば、是非横綱の文字があるかどうか探してみて下さい。横綱が番付に載っているか否かで、番付が作られたおおよその時代がわかると思います。

 

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