東京都中央区日本橋小伝馬町には江戸時代、囚人を収容する伝馬町牢屋敷がありました。放火事件を起こした八百屋お七や、黒船来航時にアメリカに密航を企てて捕まった幕末志士の吉田松陰も、ここに収容されました。常時3、400人の囚人がいた江戸の牢獄の中がどうなっていたのか、少しだけ覗いてみましょう。
牢獄は身分別
牢獄は東大獄と西大獄の2つに分かれていました。東大獄には戸籍のある者(有宿)、西大獄には戸籍がない者(無宿)が収容されました。無宿のいる西大獄の方がより治安が悪かったようです。
庶民は大獄と二間牢、御家人・大名家臣・僧・医師らは揚り屋、旗本・高僧・神主らは 少し設備のいい揚り座敷というふうに身分によって入る牢も変わりました。例外的に、女性は身分の別なく西の揚屋に収容されました。
囚人内での独自の序列があった
牢内の囚人には、幕府役人も手出しできない厳粛な序列制度がありました。囚人のトップ「牢名主」を筆頭として、12人の牢役人と呼ばれる囚人たちが獄中を統治していました。この牢役人はどんな犯罪を犯して捕まったのか等を加味して囚人たちによって選ばれました。まるで囚人の総選挙ですね。つまり囚人があっと驚くような犯罪を犯した者が役人になれたのです。
囚人のトップ陣による統治は苛烈を極めました。牢名主は10枚ほどの畳を重ねて最も高い場所に座ったのに対し、平囚人は一畳に7、8人すし詰めで、地べたに足を延ばすこともできなかったとか。 少しでも広いスペースをもらうには、入牢時に少しでも多くの持ち金を牢役人に渡したり、何か物を差し入れする事がコツでした。