神社仏閣のプロモ?森鴎外の名作・山椒太夫を生んだ説経節。そもそも説経節とは何?:2ページ目
神社仏閣のプロモーションだった!?
この説経節は、仏教の教えに導く“唱導”や仏を称える“和讃”などを取り入れて発達した“語りもの”であり、神仏の縁起などを語った民衆芸能です。成立したのも、日蓮宗、浄土宗、禅宗など民間に広がった新仏教が生まれた中世の我が国で、そうした時代を象徴するにふさわしい芸能でもありました。
説経を行う人は竹の先を細かく割って作った“ササラ”や鉦、後の時代では三味線で伴奏して各地の神社仏閣と、それにまつわる物語を聞かせ、江戸時代からは人形劇などと提携して各地で公演をしました。
山椒太夫では安寿と厨子王が持っていたお地蔵さんが出てくるので、この場合は丹後(今の京都府北部)に伝わる金焼地蔵の縁起にまつわる物語ということになるのです。
つまり説経節は、聴覚だけでなく視覚にも訴えていく、現代のコマーシャルのような役割でもあったところは、どこか親しみを感じますね。
散所?三庄?山椒?さんしょう太夫
説経節について紹介したところで、お次はタイトルの由来にして主人公・厨子王丸の仇でもある山椒太夫のトリビアを紹介致します。この超有名な悪役は、丹後の国に広大な農地を持つ長者ですが、実は様々な由来が重なって誕生した存在でもあったのです。
安寿と厨子王が山椒太夫に買われた時代は中世と言う設定ですが、ここに山椒太夫誕生のカギがありました。
学校の授業でも勉強する荘園(権力者の私有地)と言う言葉がありますが、何らかの事情でこの荘園から逃げだした人を散所(さんしょ)の民と言います。そうした人々を雇うだけでなく、拉致や人身売買で得て労働力を手にして栄えた者が散所の太夫と呼ばれたことから、命名されたと言う説が有力です。
他にもあるのが、山椒太夫が領主をしていた土地(庄)が由良だけではなく、河守や岡田も合わせた三庄であったため、三庄太夫→山椒太夫となったとする説です。
いずれにしても名前の由来が農地に絡んでいるところ、富裕な大地主でありながら強欲が治らない山椒太夫の性格を表しているとも言えますね。
次項では、森鴎外の小説やそれを基にした諸作品では描かれなかった原作の山椒太夫との差異を中心に紹介していきます。