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"東アジア初の女帝"として知られる推古天皇は本当に「中継ぎ」にすぎなかったのか?

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有名な「日出づる処の天子、書を日没する処の天子に致す 恙なきや」
という文書は、推古天皇の時代に遣隋使・小野妹子が隋へ持参した国書です。「日の出る所の皇帝(天皇)が、日の沈む所の皇帝に手紙を書く。元気か!?」との、大国である隋と日本は対等であるという立場を主張したこの手紙も、推古天皇の指示でしたためられたもの。

更に再び遣隋使として派遣された小野妹子に託された日本からの国書には「東(やまと)の天皇敬(つつし)みて 西(もろこし)の皇帝に白(もう)す」と書かれていました。

これは日本史に初めて「天皇」という言葉が登場した文書と言われています。当時絶大な力を持っていた大国・隋に対してこのように「日本はあなたの属国ではありません。あなたと平等で、上下関係はありません」とはっきりと明言する国書が、「お飾り」にすぎない天皇の指示で送られたものとは、とても思えませんよね?

推古天皇の即位した時期の日本をめぐる国際情勢は、現代に負けず劣らず、油断のならない状況でした。そんな時代だからこそ、お飾りや中継ぎではなく、真のリーダーにふさわしい天皇が求められていて、それに最もふさわしいとして選ばれたのが推古天皇だったと考えるのが妥当でしょう。

歴史上の女性天皇達の実績は、これだけにとどまりません。ニュースで「女性天皇」「女性宮家」という言葉を見聞きしたら、歴史上の女帝の活躍に思いを馳せてみてはいかがでしょうか?

 

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