"東アジア初の女帝"として知られる推古天皇は本当に「中継ぎ」にすぎなかったのか?:2ページ目
2人の有能な政治家が天皇を補佐
聖徳太子は、歴史の教科書にも登場し、目にしたことがない人はいないくらい、日本史上で最も有名な人物の1人です。聖徳太子は、女帝である推古天皇に代わり、摂政として政治を行った人物とされ、憲法17条の制定、四天王寺の建立、遣隋使の派遣などの功績を残しています。
「聖徳太子は実は存在しなかった」という説が流れた時期もありましたが、その存在を否定する根拠がないことは『播磨国風土記』などの記載からも明らかです。
彼が有能な政治家であったことに疑いの余地はありませんが、この時代には、天皇の権限を代行する「摂政」は未成立で、皇位継承のための「皇太子」という地位も確立していませんでした。
また、蘇我馬子の権力は天皇の外戚であったからこそ確立されていたものであり、当時の天皇の地位や権力を考えると、天皇を差し置いて政治の実権を握れるようなものではありませんでした。
『上宮聖徳法王帝説』には、聖徳太子と蘇我馬子は、「共に天下の政(まつりごと)を輔(たす)く」と記載され、「リーダーシップを発揮する推古天皇の元で、聖徳大使と蘇我馬子が補佐を行っていた」というのが、最近の定説となっています。
3ページ目 その時代、最もふさわしいとして選ばれたのが推古天皇…と考えるのが妥当?