『豊臣兄弟!』「夢のまた夢」あの辞世の句を生んだ秀吉の感性|師・細川幽斎と紡いだ亡き子への想い:3ページ目
天下人・秀吉が詠んだ和歌、その実力とは?
「露と落ち 露と消えにし我が身かな 浪速のことは夢のまた夢」
この和歌は、秀吉の辞世として知られる一首です。その意味は、「我が身も露のようにこの世に生まれ、露のように消えてしまう。振り返れば、難波での出来事も、夢の中で夢を見ているようなものだった」というものです。
「万代(よろずよ)の 君が行幸になれなれむ 緑木高く繁る軒の玉松」
これは1588年(天正16年)4月、聚楽第に後陽成天皇を招いて饗応した際に詠んだ一首です。その意味は、「万年にわたって、我が君の行幸を何度も迎えることを常とするだろう。緑に高く繁る軒端の松は」といったところでしょう。
何事にも度を外した派手好きというイメージがある秀吉。しかし、和歌の世界においては、師である幽斎が伝えた古典の教養を大切にし、古典文学を典拠とした歌作りを行っていたのです。
最後に、秀吉と幽斎が、歌人としてかなり高度なやり取りをしていたことがうかがえる逸話を紹介しましょう。
それは、1592年(文禄元年)正月16日のことでした。
秀吉から幽斎のもとに、祐筆を通じて一通の手紙が送られてきます。
そこには、次のように記されていました。「太閤さまは、前年に亡くなった長男の鶴松君と夢の中でお会いになった。目が覚めたとき、炬燵の上には涙が落ちて水たまりになっていた。そこで、この一首をお詠みになったのだ。御返歌をいただきたい」
その和歌とは、「なき人の かたみの涙 のこし置きて 行方もしらず 消えはつるかな」でした。
「いまはこの世にいない愛しい人が夢に現れた。しかし、その姿は行方も知れず消えてしまい、形見として私の涙が残るだけだ」というような意味でしょう。
これに対して幽斎は、「をしからぬ 身をまぼろしと なすならば 涙の玉の ゆくゑ尋ねん」と返します。
その意味は、「惜しくもない老いた身を幻とすることができるならば、お涙の行く先を尋ね、若君の魂のありかを訪ねましょうものを」というものでした。
秀吉の亡き我が子に対する悲しみを表現した一首も見事ですが、それに対する幽斎の返歌には、中国・唐代の白楽天の詩『長恨歌』や、謡曲『楊貴妃』のイメージが重ねられていたとも考えられます。
つまり幽斎は、秀吉の悲嘆を、玄宗皇帝が楊貴妃を失った悲しみになぞらえて詠んだのでしょう。もちろん、そうした表現を秀吉が理解してくれることを踏まえての返歌だったと考えられます。
このように秀吉は、細川幽斎という当代随一の文化人を師として和歌を学び、自らも数多くの歌を詠んだ人物でした。
秀吉はまさに、桃山時代を代表する歌詠みの一人でもあったといっても、決して過言ではないでしょう。その姿を知ると、天下人・秀吉のイメージも少し違って見えてくるのではないでしょうか。
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