『豊臣兄弟!』「夢のまた夢」あの辞世の句を生んだ秀吉の感性|師・細川幽斎と紡いだ亡き子への想い:2ページ目
秀吉も幽斎に和歌を学んでいた
幽斎の弟子であった八条宮智仁親王と、その兄である後陽成天皇は、使者を遣わして田辺城を開城するよう説得しましたが、幽斎は拒絶しています。
ただし幽斎は使者を通じて、『古今集証明状』を八条宮に贈り、『源氏抄』と『二十一代和歌集』を朝廷に献上しました。
ここからは、自分が死んでも古今伝授を後世に伝えるという、武将として、そして文化人としての幽斎の覚悟が伝わってくるのです。
田辺城籠城戦は朝廷が動いたこともあり、関ヶ原の戦いの2日前となる9月12日、勅命による講和が結ばれ、幽斎の命は助かりました。
そのような幽斎の門人の一人に、『豊臣兄弟!』の主人公の一人、豊臣秀吉(池松壮亮)がいました。
結論から言うと、秀吉は和歌を愛し、幽斎を師として本格的に歌道を学んだ歌人でもあったのです。
秀吉が幽斎から本格的に和歌を習い始めたのは、1585年(天正13年)に関白に任じられた頃からとされています。
よく秀吉は「人たらし」と称されますが、それは、人の心情を機敏に捉えることのできる繊細な感性を持っていたともいえるでしょう。そうした繊細な感性によって、秀吉はもともと「歌詠み」としての素質を持っていたのかもしれません。
秀吉が天下人として君臨するようになると、朝廷や公家との交流も増え、「秀吉文化サロン」ともいうべき文化的な場が形成されていきました。
ここでは、秀吉を中心に、彼を取り巻く武将たちの間で作歌が盛んに行われたのです。その主なメンバーは、幽斎のほか、木下長嘯子や小堀遠州らの武人、そして秀吉の祐筆を務めた松永貞徳などでした。
