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【逃げ上手の若君】最大の怨敵・足利尊氏は“ほぼ北条の身内”だった?100年続いた血縁と裏切りの真実

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北条氏の身内?それとも裏切り者?その真意は…

鎌倉時代の平和は、1人の天皇の倒幕計画によって終わりを告げます。

元弘元(1331)年、後醍醐天皇が鎌倉幕府の打倒を計画していることが露見。幕府は追討使を派遣して調査に当たらせる事態となりました。

これを受けて後醍醐天皇は京都を脱出して笠置山に籠城。河内国では悪党(御家人の説あり)・楠木正成が挙兵してこれに応じます。

幕府は一度は鎮圧するものの、倒幕の機運が衰えることはありません。

元弘3(1333)年、鎌倉幕府は高氏に西国への出陣を命令。後醍醐天皇方の倒幕軍鎮圧を、高氏に期待していました。

当時の執権は、高氏の義兄・赤橋守時です。血筋や婚姻関係からしても、高氏がどれほど信頼受けていたかがわかります。

高氏は命令を受けて兵を率いて出陣。やがて丹波国篠山に至った高氏は、ここで幕府へ反旗を翻ることを決意します。

同年5月、高氏は引き返して京都に進撃。幕府の出先機関・六波羅探題を攻撃して滅ぼしました。

同月には、関東において挙兵した御家人・新田義貞が鎌倉に進撃。これを迎撃したのが、高氏の義兄で執権である赤橋守時でした。

この守時の出陣は、高氏の翻意によって自身も裏切り者扱いされるのを避けるためのものであったようです。

戦いに敗れた守時は、戦後に自刃。やがて鎌倉は新田軍によって陥落し、北条氏一族は東勝寺で自害して、ここに鎌倉幕府は滅亡しました。

高氏は、後醍醐天皇の諱である「尊治」から一時を拝領。「尊氏」と名乗ることを許されます。

足利尊氏が、北条高時の偏諱と決別した瞬間でした。

しかし北条氏出身の赤橋登子はその後も尊氏の正室であり続けます。

二人の間にはのちの室町幕府二代将軍となる足利義詮や、初代鎌倉公方となる足利基氏が生まれて後世にその血筋を伝えました。

100年以上に渡り、複雑に絡み合った二つの名門武家の足利と北条。その二つが最後は敵味方に分かれて争い、最後は二つの血筋が後世へと受け継がれる。

二つの家のつながりは、幾多の物語を生んで我々に往時の姿を伝えています。

 

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