【豊臣兄弟!】本多忠勝vs加藤清正「小牧・長久手」“幻の一騎打ち”と2人に隠された意外な共通点:2ページ目
本多忠勝と加藤清正、二人に共通する「政治力」
忠勝と清正の一騎打ちの話は、この辺にしておきますが、実はこの二人には、重要な共通点がありました。
それは、二人とも単なる武将、そして軍事指揮官ではなかったということです。
もちろん、両名とも出仕した若いころは、一騎駆けの武者として戦場では先頭に立ち、槍働きをしたことでしょう。しかし大名格に出世してからは、よほどのことがない限り、後方に控えて全体の指揮を執っていたと考えるのが普通です。
そして、少し言葉が悪いのですが、軍事指揮官は単なる「戦バカ」では務まりません。つまり、忠勝も清正も、槍働き以外の才能があったからこそ10万石以上の領地を与えられ、数千という軍勢を動かす指揮官として認められたのです。
忠勝や清正が生きた戦国時代において、大名たる第一の資格は軍事的才能だったでしょう。
しかし、それだけでは領国を管理できません。そこには、政治的な才能も必要でした。
実は秀吉が清正に期待していたのは、財務官僚としての仕事でした。記録に残るだけでも、豊臣家の播磨国や和泉国にあった蔵入地の代官を務めています。
また、秀吉による九州平定・肥後国人一揆の後にも、同地で検地を実施し、税を徴収する仕事を任されました。
このような不安定な政治情勢のなかで、難しい仕事をこなす政治力こそが、清正のもう一つの真骨頂だったのではないでしょうか。だからこそ秀吉は清正に肥後半国、約25万石を与えたと考えることができます。
そして忠勝も、関ケ原の戦いに臨む前に、井伊直政と組んで西軍諸将に大量の文書を発給しました。
これにより毛利秀元は東軍と一戦も交えず大坂に後退し、吉川広家や小早川秀秋の内通を引き出すなど、東軍にとって有利な状況を作り出していきます。
つまり忠勝の政治的才能もまた、関ケ原の戦いにおける東軍の勝利を支える一因となり、やがて家康による江戸幕府の開府へとつながっていったのです。
本多忠勝と加藤清正。一方は徳川家康に仕え、もう一方は豊臣秀吉に仕え、ともに「猛将」として語られることが多い人物です。
しかし、二人の生涯を追ってみると、そこに見えてくるのは武勇だけではなく、領国を治め、人を動かし、主君のために政治的な難題にも立ち向かう、そのような姿でした。
ここに忠勝と清正が、後世まで名を残した理由があるのではないでしょうか。
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※参考文献
本郷和人著 『戦国史のミカタ』祥伝社新書
谷川健一編『加藤清正 築城と治水』冨山房インターナショナル



