日本初の女子帝大生・丹下梅子とは?48歳で海を渡り、67歳で日米二度の博士号を手にした不屈の軌跡【後編】:2ページ目
「女性初」のその先、82年の研究人生
梅子について語るとき、「日本初の女子帝大生」「女性科学者の先駆者」という言葉が使われます。もちろん、これは重要な事実です。
しかし、「女性なのに大学へ行った人」という見方だけでは、梅子の姿を十分に捉えられません。彼女が選んだのは、化学という専門分野でした。大学で学び、研究し、海外へ渡り、博士号を取得し、帰国後も研究と教育を続けています。そして1955年、82歳で亡くなりました。
「女性初」という肩書きの陰には、一人の研究者として専門を追い続けた長い時間がありました。日本女子大学では、梅子を「リケジョのパイオニア」と位置づけています。その功績を記念した丹下記念奨学金も設けられ、後進の学生を支える取り組みにつながっています。
梅子の人生を瞥見してみると、鹿児島から始まった一人の女性の学びが、日本国内にとどまらず、アメリカへと広がっていったことがわかります。そこには一つの特徴が見えてきます。それは、学ぶことが「遅かった」のではなく、「長かった」ということです。
28歳で大学へ進んだことも、40歳で帝国大学へ入ったことも、48歳で海外へ渡ったことも、67歳で博士号を取得したことも、それぞれの前に長い準備の時間がありました。「何歳からでも挑戦できる」という言葉は、たしかに梅子の人生にも当てはまります。ただ、それだけでは少し単純すぎます。
梅子が歩んだ道は、何もないところから突然始まったものではありません。教師として働き、大学で学び、研究助手として経験を積み、その一つ一つを次の段階へつなげていきました。だからこそ、彼女を単に「日本初の女子帝大生」と呼ぶだけでは惜しいのです。
梅子は、女性が科学を専門的に学ぶことがまだ難しかった時代に、「化学」という自分の専門を見つけ、その道を長く歩き続けた研究者でした。明治、大正、昭和。
三つの時代を生き、40歳で帝国大学へ入り、48歳で海を渡り、67歳で博士号を取得する。その人生を知ると、「学び始めるのに遅すぎる」という言葉が、少し頼りなく感じられてきます。
もちろん、誰もが梅子と同じ道を歩めるわけではありません。時代も環境も違います。それでも、学ぶことに年齢だけで区切りをつける必要はない。一度選んだ道を、最初から最後まで一直線に歩かなければならないわけでもない。その時々で学び、働き、考え、また次の学びへ進んでいく。丹下梅子は、そんな学びの積み重ねの人生を送ったのです。
「日本初の女子帝大生」。
それは確かに、彼女を語るうえで重要な肩書きです。ですが、その肩書きの後ろには、40歳から新しい世界へ踏み出し、82歳まで科学と向き合い続けた、一人の女性研究者の長い人生がありました。
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参考
- 辻きよ『先覺者丹下先生』(1953 日本女子大学香雪化学館「丹下賞」設立委員会)
- 蟻川芳子・宮崎あかね『白梅のように――化学者丹下ウメの軌跡』(2011 化学工業日報社)
- フジネットワークシステム九州編 『We love九州 : それは九州に始まった 』3(1989 海鳥社)
- 原口泉「【歴史のささやき】志學館大教授・原口泉氏 日本初の女子帝大生・丹下ウメ、リケジョの先駆け」『産経新聞』、2016年3月25日。


