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朝ドラ『風、薫る』迫る戦争の影…多江の決断と、歴史を変えた「篤志看護婦」たちの知られざる史実

朝ドラ『風、薫る』迫る戦争の影…多江の決断と、歴史を変えた「篤志看護婦」たちの知られざる史実:2ページ目

日清戦争時、新島八重らが活躍した広島の陸軍病院

広島の陸軍病院で篤志看護婦として活躍した人といえば、2013年の大河ドラマ『八重の桜』の主人公で、福島県会津出身、同志社の創設者・新島襄の妻、新島八重(綾瀬はるか)が有名です。

八重は、明治23年(1890)、日本赤十字の正社員となり、明治27年(1894)の日清戦争では、広島の陸軍予備病院で4ヶ月「篤志看護婦」として活躍したそうです。

八重達が担当したのは、広島陸軍予備病院の第三分院でした。そこは戦争の負傷兵ばかりではなく、伝染病専用の隔離病棟も含まれていました(看護婦4名が伝染病に罹って死亡しています)。(同志社女子大学「篤志看護婦としての八重」)

実際、日清戦争では負傷兵よりも、病死者のほうが多かったといわれています。

広島ではその前年(明治26年)から赤痢が大流行しており、軍内で感染が拡大すれば、戦地での戦闘や士気、軍の集団生活に大きな影響を与える恐れがあるため、速やかに感染を抑える必要があった。……(中略)……
戦争が始まると、戦地からの帰還者を介して持ち込まれたコレラが市街地を中心に流行し、宇品町では一時警察による交通遮断が実施されるほどであった。(広島市 Web展示会「疫禍来襲!! 近代以降の伝染病と広島の歴史」)

実際に起こった、大規模な人数の赤痢やコレラの発生。

伝染病患者の看護・負傷兵の看護・防疫など、自分たちが感染しないように細心の注意を払いながら行うのは、どれだけ肉体的にも精神的にも大変だったことか。想像を絶するものがあります。

篤志看護婦の活躍ぶりが広まり看護婦希望者が増える

日清戦争における、日赤看護婦の活躍ぶりは、当時のマスコミが大いに讃えて「従軍看護婦」として宣伝し、たちまち国民にその存在を認知されることになりました。

日清戦争後の『論功行賞』(功績を認めて評価し相応の褒賞を与える)では、日赤看護婦は叙勲の対象となり、「新しい女性の職場」として、看護婦の人気は高まっていったそうです。

思えば、「風、薫る」のドラマの当初、「トレインドナースにならないか」と大山捨松(多部未華子)に誘われたとき、りんの中には「病人の世話をしてお金をもらう賤業」という世間と同様の偏見がありました。

けれども、「自分の力で生活をしていきたい」と看護婦への道を選びましたね。

その後、見習いで働く大学病院では医師に軽く見られたり患者に「下女」呼ばわりされたり、さまざまな差別や偏見があることを体験。

大学病院を辞めて新潟の高田女学校の舎監に就いたときも、女学生たちに「なんで看護婦なんか」やっていたのかと、ナチュラルにディスられもしました。

けれども、りんや直美たちは、数年をかけて接する人々に「看護婦」という職業の大切さを少しづつ認識してもらうように努力し続けてきています。

まさか、人の体を傷つけ命を奪う戦争によって「看護婦」がいきなり有名な職業になってしまうとは……皮肉なものです。

3ページ目 ユニフォームは「看護婦」の証明

 

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