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蜜月から泥沼の追放劇へ…なぜ織田信長と足利義昭の『二重政治』は破綻したのか?

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将軍を追放

ところが一五七〇年になると、信長の周囲で反抗勢力が次々と動き始めました。朝倉義景浅井長政、三好三人衆、長島の一向宗門徒などが相次いで信長と対立したのです。

こうした反信長勢力の拡大には、義昭がひそかに働きかけていたという説があります。信長への感謝が、自分の将軍としての権威を十分に尊重しないことへの不満へ変化したと考えられているのです。

ただし、すべてを義昭の働きかけだけで説明することはできません。

当時の信長は経済政策も推し進めていました。道路や河川に設けられていた関所を廃止し、伊勢湾の交易をおさえ、自治都市だった堺には代官を置いて矢銭を求めたのです。

信長は、四国から大阪、京都へつながる交易圏へ影響力を広げていました。三好政権が持っていた畿内の政治的、経済的な基盤を奪ったともいえる構図でした。

こうして見ていくと、戦国大名にとって信長打倒は領国を広げる機会でもあり、天下人を目指すなら避けては通れないチャンスでもあったわけです。将軍からの呼びかけに応じる理由はそれぞれに存在していました。

義昭の呼びかけが直接的な原因ではなく、各人の利害が一致する状況だったのでしょう。

一五七二年には信長と義昭の対立がさらに激しくなります。九月には信長が異見十七カ条を公表し、義昭の朝廷への態度や遊興、賄賂などを厳しく批判。

このあたりから、信長は義昭との関係を政治的に切り離していくことを考えていたのでしょう。

正親町天皇は信長と義昭に和睦を命じましたが、関係は修復しませんでした。七月、義昭が槙島城で挙兵すると信長はこれを破り、義昭を京都から追放します。

一五六八年に義昭を将軍として京都へ連れてきてから、その将軍を京都から追い出すまでの期間はわずか五年

義昭は河内へ追われ、その後は備後へ移って毛利輝元を頼ります。晩年には豊臣秀吉から一万石を与えられ、一五九七年に死去しました。

こうして義昭の追放によって、室町幕府は終わりを迎えます。

ここまでの経緯と結末を見ると、あたかも最初から最後まで信長が義昭を利用したかのように見えます。

しかし実際の政治体制の二重権力構造の実態はそうシンプルに割り切れるものでもありません。二人はそれぞれに役割と思惑があったのです。義昭の将軍としての権威も、決して消滅はしていませんでした。

ただ信長にとって義昭は、最初は京都へ入るための重要な政治的存在でしたが、最後には自らの政権を妨げる存在となったため、追放という形で対立を解消せざるを得なかったのでしょう。

参考資料:出口治明『10人の英傑が「この国」を変えた 大転換の日本史』2025年、PHP研究所
画像:Wikipedia

 

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