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手柄を立てたのに祝宴をスルー?豊臣秀長が「論功行賞」に出ず留守番を選んだ意外な理由

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祝宴より仕事

小谷城は、戦いが終わったからといって完全に安全になったわけではありません。騒乱や一揆によって城を失えば、戦後の処理にも影響が出るため、重要な人物を残しておく必要がありました。

その役目を担ったのが秀長だったのです。あれほどの手柄を立てた直後にもかかわらず、任されたのは目立たない仕事でした。

さらに翌年の天正2(1574)年、浅井・朝倉を滅ぼし、足利義昭を京から追放するところまでこぎつけた信長は、岐阜城で盛大な正月祝賀を開きました。

長年戦ってきた石山本願寺とも和睦が成立し、宿敵だった武田信玄もすでに亡くなっていました。信長にとって、久しぶりに安堵して正月を迎えられる時期だったと考えられます。

当然ながら、多くの諸将が岐阜城へ集まりました。ところが、そこにも秀長の姿はありません。

秀長はこの時も小谷城に残り、留守居を続けていました

これは周囲から見れば、割に合わない役目を引き受けているように映ったかもしれません。

しかし、秀長本人がそれを不満に感じていたかどうかは、残された記録だけでは分かりません。ともあれは彼は手柄を立てたあとも目立つ場所へ移らず、必要な仕事を続けていたのです。

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