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ブラタモリで注目!徳川家康はなぜ大須観音を名古屋へ移したのか?「清洲越し」と城下町建設の真実

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美濃の大須から移された観音と文庫

大須観音の由来とその後について見てみましょう。

大須観音の正式名称は、北野山真福寺宝生院です。その起源は、尾張国中島郡長岡庄大須村、現在の岐阜県羽島市付近にあった観音堂に求められます。

14世紀ごろには能信上人が堂塔を整備し、各地の書物を書写・収集しました。これが後の「大須文庫」の基礎となります。

ところが、旧所在地は木曽三川に近く、水害を受けやすい地域でした。名古屋市の歴史的風致に関する資料では、家康が貴重な書籍や文書を木曽川の水害から守るため、慶長17(1612)年に真福寺を名古屋城下へ移したと説明されています。

大須文庫には、国宝の『古事記』写本など約1万5000点の典籍が伝わっています。寺院の移転は、信仰の場を移すだけでなく、中世以来蓄積されてきた「知」を安全な新都市へ運び込む事業でもありました。

大須観音が置かれたのは、名古屋城下の南側に形成された寺町でした。現在の大須周辺には多くの寺社が集められ、その中で大須観音は参詣者を集める中心の一つとなります。

参詣者が増えれば、食べ物や日用品を売る店、宿、見世物なども必要になります。

こうして周辺は門前町として発展し、寺の旧所在地に由来する「大須」という名で呼ばれるようになりました。

後の時代には芝居や芸能も栄え、信仰と商業、娯楽が交わる町へと成長していきます。

清洲越しによって名古屋へ運ばれたのは、建物や家財だけではありませんでした。武士の統治機構、商人や職人の技術、寺社の祭礼、地域の記憶までが、新しい城下町へ移されました。

一方、大須観音の移転は、清須以外の地域からも文化的な資源を集め、名古屋を政治だけでなく、信仰や学問の中心にしようとした都市づくりの一面を示しています。家康が大須観音を移した理由は、水害から寺宝を守ることと、新しい城下町に寺町の核を置くことが重なっていたと考えられます。

現在の大須のにぎわいは、慶長年間に運ばれた一つの寺院から始まりました。名古屋の町は、城や道路だけでなく、人々の信仰と知識まで移すことで形づくられたのです。

 

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