『豊臣兄弟!』本能寺の変は信長の“裏切り”が原因?長宗我部元親との約束破り「四国説」とは:3ページ目
元親の力を利用するもその勢力を危険視した信長
長宗我部元親は、天文8年(1539)に高知県南国市にあった岡豊城で誕生しました。
色白で本ばかり読んでいるおとなしい性格の子供で、ドラマのセリフのように家臣たちに影で「姫若子さま」と呼ばれていたとか。
青年期になっても「槍の突き方も知らないうつけ」などと陰口を叩かれるも、22歳という遅めの初陣「長浜の戦い」にて周囲の予想に反して自ら槍を持って突撃し大活躍。
当時、土佐の最大勢力であった本山氏に勝利します。驚いた家臣たちは「鬼若子」「土佐の出来人」と褒め称えたのでした。
その後、本山氏を降伏させ土佐中部の制圧に成功、土佐東部を支配していた安芸国虎に勝利、天正3年(1575)には四万十川で一条兼定と土佐の覇権をかけた戦いを行い圧勝します。
信長は、元親の四国での勢力拡大を容認し同盟を結び、阿波国に侵略し織田側の敵・大阪本願寺に味方する阿波三好氏の攻略をさせようとしました。
ところが、天正8年(1580)に大阪本願寺との戦いが和睦によって終結すると、信長は四国全土に広がりそうな元親の勢力を危険視するようになったといいます。
そこで、ずっと間に入って交渉していた光秀に「元親による四国平定を認めない」「気が変わったのじゃ。うまく説き伏せよ」の、手のひら返しの状態になったそうです。
3年間も「四国全土を攻略していいぞ」と言われ励んできたのに、信長のこの仕打ち。さらに、元親の攻略相手の三好安康長に阿波一国を統治させることにしました。
信長は、光秀を通じて元親に「領土は土佐一国だけで納得しろ」と伝えたのでした……この仕打ちは、元親からも光秀からも怒りを買って当たり前でしょう。
