『豊臣兄弟!』荒木村重(トータス松本)が見殺しにして、妻・だし(山谷花純)と竹中半兵衛(菅田将暉)が助けた二人の幼子の運命:2ページ目
官兵衛の身内宛に「涙を流し候」と書いた手紙
半兵衛は死を迎える二ヶ月ほど前、天正7年4月9日の日付で、黒田官兵衛の身内宛と思われる手紙を残しています。
半兵衛の直筆の手紙で現存しているのは2通しかないそうですが、そのうちの1通でした。(『竹中半兵衛書状』東京大学資料編纂所所蔵影写本)
そこには、「囚われの官兵衛とやりとりすることができ、無事でいることがわかった」とあり、さらに「官兵衛から『松寿のこと懇ろに申し来たり候』とお願いされ、涙を流し候」と綴られていました。
「松寿のことを、どうか、どうか、よろしくお願いします』という文に、思わず涙をこぼした半兵衛。ここまで感情をストレートに表現した手紙は、ほかの武将と比較しても珍しいそうです。
ドラマでは描かれませんでしたが、このとき半兵衛にも、まだ一人前ではない息子がいました。
「どうかどうか」という父として子を思う切実な文章に「涙を流し候」ほど共鳴したのでしょう。
残り少ない寿命を賭け官兵衛の息子をかくまい信長を欺く作戦に打って出た半兵衛。
おかげで、松寿丸は助かり、幽閉から救出された父・官兵衛と再会を果たすことができたのでした。
20年前に救った命が結ぶ絆は孫の代まで続く
半兵衛に命を助けられた松寿丸は、成長し黒田長政と名乗ります。本能寺の変で信長亡き後は豊臣秀吉に仕え、次々と武功をあげ、若くして頭角を表しました。
天正17年(1589)に父・官兵衛が隠居し家督を継いだ長政は、
秀吉の死後、かねてより折り合いの悪かった石田三成との対立が決定的となり、同様に三成と対立する徳川家康に接近します。
長政の名を大きく高めたのが慶長5年(1600)「関ヶ原の戦い」でした。
西軍の三成に対して東軍に所属した黒田長政。一方、当初は西軍にいた竹中半兵衛の息子・竹中重門は東軍に転じました。
関ヶ原はもともと竹中家の領地だったので、地の利に詳しい重門が長政を案内したといわれています。そして、東軍の勝利におおいに貢献したのでした。
「関ヶ原」の戦いで一際目を引いたのが、長政が身につけた『銀箔押一の谷形兜』。この兜は半兵衛が持ち主で、形見分けで福島正則が入手し、その後、長政の手に渡ったそうです。
兜の名「一の谷」は源平合戦で知られる場所で、源氏が険しい山を馬で駆け下りて平氏を奇襲した「鵯越の逆落とし(ひよどりごえのさかおとし)」を行った古戦場です。
この兜は、一の谷の断崖絶壁を表現したデザインで、半兵衛が源氏の勝利にあやかり作らせたのでは……といわれています。
実際は、どこまで長政が半兵衛に恩義に思っていたか明確にはわかりませんが、半兵衛の兜を被った長政を、息子の竹中重門が手助けをして共に戦ったことを思うと、ずっと絆は紡がれていたのでしょう。

