豊臣秀吉の“中国大返し”は奇跡ではない!明智光秀を出し抜き「本能寺の変」を勝機に変えた周到すぎる仕込み
神業の行軍
戦国時代に詳しい人なら、中国大返しのことは当然ご存じでしょう。
豊臣(羽柴)秀吉が本能寺の変を知るや否や、備中高松城から京都まで一気に駆け抜けたというあの伝説のエピソードです。
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これは八日で約二百キロを踏破した神業の行軍として、秀吉の天下取りの決定打のひとつとして今でも語り継がれていますね。
しかし伝説は伝説です。この「神業」にはかなり現実的な裏側がありました。
そもそも『惟任退治記』や『甫庵太閤記』によって伝えられている「一昼夜で七十キロ」という進行速度は秀吉自身のアピールが強く、誇張の可能性が高いのです。
大事なのは、秀吉が超人的な奇跡を起こした伝説そのものよりも、あらかじめ奇跡(的な行軍)が可能となるような条件を整えていたという点です。
即断の裏側
本能寺の変の急報が秀吉に届いたのは、六月三〜四日の深夜とされます。
明智光秀の密使が毛利軍に向かう途中で秀吉の陣に迷い込み、持っていた書状から事態が判明したと言われています。
京都と備中は二百キロ以上離れており、普通なら信長の生死はすぐには分かりません。それでも秀吉は、信長が討たれたとほぼ決めつける形で、即座に動き始めました。
この異様な速さについて、実は秀吉は弟の豊臣秀長に命じ、備中から丹波を経て京都へ至る独自の情報ルートを作り、使者を頻繁に往復させていたという説があります。
もしそうだとすれば、秀吉は光秀の不穏な動きを事前に察知していたことになります。
密使の書状と合わせれば、光秀が本気で動いた以上、信長が生き延びる可能性は極めて低いと判断しても不思議ではありません。
さらに、秀吉は本能寺の変の前から毛利氏との講和交渉を進めていました。
彼は当初、複数国の割譲を求める強気の姿勢を見せていたのですが、本能寺の変を知ると要求を三ヵ国にまで下げ、清水宗治の切腹を条件に和睦をまとめます。
もともと、高松城の救援が難しくなった毛利側は和睦を模索しており、信長の死を知らないこともありこの条件を受け入れます。
この素早い和睦こそ、中国大返しのスタートラインだったのです。




