『豊臣兄弟!』ドラマでは描き切れなかった松永久秀(竹中直人)…平蜘蛛と爆死だけでは終わらない本当の実像:2ページ目
多聞城は戦国屈指の文化サロンだった
松永久秀と言えば、将軍足利義輝殺害、東大寺大仏焼き討ちなど、戦国時代を代表する悪人というイメージが付きまといますが、現代の歴史研究では否定的な説が多いようです。
それどころか、久秀は戦国を代表する文化人であったことが、その居城である多聞城の様子から伺えます。『柳生文書』によれば、多聞城の主要な建物として「主殿」「会所」「庫裏」がありました。
主殿・会所は、戦国期の城館や公家屋敷における儀礼の建物です。主殿は主君と家臣、あるいは来賓者を迎える正式の対面行事の場。一方、会所は身分に関係なく連歌の会や宴会を行った、いわば文芸活動のための場でした。
多聞城の主殿・会所の内部は、美しい調度品が用いられていました。柱には彫刻や真鍮製の飾りが施され、赤銅の引き手は京都の著名な金匠(きんしょう)である太阿弥(たいあみ)に依頼。また障壁画は、狩野派の絵師に描かせました。
多聞城の豪華さについては、1565年(永禄8年)に多聞城を訪ねた宣教師ルイス・デ・アルメイダは「御殿の壁には日本と中国の古い歴史物語が描かれている。画のないところは金が施されていた」と記しています。
さらに多聞城内には、「北向きの六畳敷右構え」と「北向き四畳半左勝手」の二つの茶室があったとされます。久秀はここで茶会を開き、「煙寺晩鐘」の軸、「九十九髪茄子茶入」「平蜘蛛茶釜」など天下の名器を用いて、千利休、曲直瀬道三など当代一とされる名士たちを招きました。
まさに茶人・松永久秀の面目躍如というもの。そしてこのような多聞城は単なる軍事拠点ではなく、畿内随一の文化サロンでもあったのです。
いかがでしたか。「梟雄」「悪人」と語られることの多い松永久秀ですが、その実像は、優れた武将であるとともに、戦国の先端文化に通じた教養人・文化人でもありました。
つまり、久秀は武力だけでなく、文化によっても時代に大きな影響を与えた人物だったのです。
次回は、そんな久秀が家臣たちとどのような信頼関係を築いていたのか、その人物像をさらに掘り下げていきます。
『豊臣兄弟!』松永久秀(竹中直人)は本当に悪人だったのか?家臣たちに慕われた戦国武将の意外な素顔
参考:天野忠幸編 『松永久秀 歪められた戦国の“梟雄”の実像』
トップ画像:大河ドラマ「豊臣兄弟!」公式サイトより


