『豊臣兄弟!』秀吉亡き後、徳川家康が恐れた“最悪の事態” 〜藤堂高虎と井伊家が封じた西国大名の進軍路【後編】:3ページ目
中山道・東海道を封鎖。彦根・津・名古屋の防衛ライン
家康は、西国の雄藩が京都を押さえ、そのまま江戸へ進軍するという最悪の事態を想定していました。そのために、井伊家の彦根城、藤堂家の津城、さらに尾張徳川家の名古屋城という防御ラインを構築しました。
西国の反乱軍が京都を抑え江戸を目指すとなると、その進軍路は大軍ゆえに中山道・東海道になります。中山道には彦根城、東海道には津城。ここでまず西国軍は足止めされます。両藩合わせて67万石、動員兵力は約2万。しかも両城は堅城として名高く、容易には落とせません。
仮に西国雄藩の総石高を300万石としても、動員できる兵数は約9万。彼らは遠征軍なので自領に留守の兵は残して置かなければなりません。すると、多く見積もっても兵力は7万くらい。
その兵力で彦根城と津城を包囲したとしても、そこに名古屋城を出兵した尾張藩60万石の兵(最大で1万8千人)が背後から襲い掛かってきます。これでは、反乱軍に勝機はほとんどありません。加えて、関東から幕府軍が西上すれば、挟撃によって壊滅は必至となります。まさに、家康が描いた「詰みの布陣」でした。
しかし残念ながら、江戸防衛のための防御ラインが実戦で試されることはありませんでした。260年後の幕末、鳥羽・伏見の戦いから始まる戊辰戦争において、彦根藩・津藩・尾張藩はいずれも新政府側に与します。
家康が築き上げた鉄壁の西国防御ラインは、機能することなく歴史の舞台から消えていったのです。
※参考文献
本郷和人著 『戦国史のミカタ』 祥伝社


