27歳で討死したはずの斎藤龍興は生きていた?戦国時代、信長に敗れた美濃斎藤家当主に残る2つの生存説『豊臣兄弟!』:2ページ目
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名を変え、農民となった
他に、龍興が永禄12年(1569)1月に起きた本圀寺の変後に落ち延びたとされる伝説も残されています。
その伝説は、同年3月に家宝系図を持って越中国新川郡布市村(現在の富山県富山市布市)の興国寺に逃れたことから始まります。
龍興は現在の情勢を考えた末に斎藤家再興はできないことを悟り、九右ェ門と改名。その地に住みつくと、付近の荒れ地を開拓し始めます。
龍興は、人々に仏の力である、お経の力なりと励まし続け、開拓を行いました。そのような経緯から天正8年(1580)に開拓地を経力村(きょうりきむら)と命名しました。
慶長16年(1611)には家督を譲った後に出家し、興国寺の住職になります。また、龍興はその寺の第2の創始者である中興開山になったと伝えられています。
さらには、鶴に導かれた場所から源泉を発見したことも伝わっており、その源泉は霊鶴源泉(れいかくげんせん)と名付けられました。木造薬師如来像も祀られ、経力の湯として長年親しまれました。
その後は寛永9年(1632)に86歳で死去。墓は富山県富山市経力の本誓寺にあるといわれています。
また、龍興改め九右ェ門の子孫は、文政3年に越中国新川郡大泉村(現在の富山市大泉)に移りました。大正2年(1913年)には富山県新川郡堀川村小泉(現在の富山市堀川小泉)に移り住んだといわれています。
また、残念ながら霊鶴源泉は大正6年(1917)に廃業しています。
参考:木下聡『斎藤氏四代:人天を守護し、仏想を伝えず 』2020年、ミネルヴァ書房
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