『豊臣兄弟!』万丸を人質に取り最期まで秀吉に仕えた男…史実での宮部継潤(ドンペイ)の生涯を辿る:2ページ目
秀吉から厚く信頼される
かくして秀吉の与力となった継潤は、天正5年(1577年)から秀吉の中国攻めに従軍。主に羽柴長秀(小一郎。仲野太賀)を補佐しながら山陰方面で活躍しました。
小一郎が山陽方面へ出張して不在になる際は、代わりに指揮をとるほど信頼されたと言います。
歴戦を経て武功を重ね、天正8年(1580年)ごろには但馬国豊岡城(兵庫県豊岡市)と2万石の所領を与えられました。
天正9年(1581年)には因幡国鳥取城(鳥取県鳥取市)で城代を務め、毛利氏の反撃に備えたと言います。
翌天正10年(1582年)に本能寺の変(明智光秀による信長暗殺事件)が起こり、秀吉と小一郎が中国戦線から京都へ駆け戻った「中国大返し」では、前線に残って二人の背後を支えました。
これによって秀吉たちは、後顧の憂いなく明智光秀(要潤)との決戦に臨むことができたのです。
信長の死によって混乱した織田政権を乗っ取った秀吉により、継潤は鳥取城主の座と5万石の所領を賜わりました。
その後も天正13年(1585年)の佐々成政(白洲迅)討伐や天正15年(1587年)の九州征伐に参陣。武功を重ねています。
天正18年(1590年)の小田原征伐にも従軍し、ついに秀吉の天下一統を見届けるにいたったのでした。
この年に継潤は嫡男の宮部長房(ながふさ)に家督を譲って隠居しますが、戦場の指揮を任せたくらいで、政務の実権は握っていたようです。
(※翌天正19・1591年に小一郎が世を去り、大河ドラマ「豊臣兄弟!」はここで終了?)
やがて文禄2年(1592年)に第一次朝鮮出兵(文禄の役)が起こると、肥前名護屋へ出陣しました。渡海を願い出たものの、流石に高齢だったため許されなかったと言います。
寄る年波には勝てず、慶長元年(1596年)に本当の隠居。しかし秀吉は継潤を御伽衆(側近)として身近に置き、何かと相談していました。
慶長3年(1598年)に秀吉が世を去ると遺物(形見)として黄金30枚を拝領、慶長4年(1599年)3月25日に自身も世を去ったのです。
終わりに
今回はドンペイ演じる宮部継潤について、その生涯を駆け足でたどってきました。浅井攻略のキーマンであるのみならず、その後も全幅の信頼を寄せられ、それをまっとうした名将と言えるでしょう。
果たして今後どんな活躍を魅せてくれるのか、楽しみにしています!
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※参考文献:
- 桑田忠親『太閤家臣団』新人物往来社、1971年1月
- 高柳光寿ら『戦国人名辞典 増訂版』吉川弘文館、1981年10月
- 谷口克広『信長軍の司令官』中公新書、2005年4月



