『豊臣兄弟!』あの足利義昭 側近は誰?義昭と信長に仕え架け橋となった武将・和田惟政の壮絶な生涯:3ページ目
義昭と信長の架け橋に
それからも惟政は、幕臣でありながら織田家臣として外交・軍事・政治と多方面で活躍しました。義昭と信長を結ぶ橋渡し役を担っていたようです。
そんな中、惟政はいきなり信長から謹慎を命じられてしまいました。
まったく身に覚えが……ない訳ではありません。惟政自身の落ち度ではないけれど、義昭と信長の関係が徐々に険悪なものとなっており、そのとばっちりを受けたのでしょう。
他にも引見の不許可や2万クルザード(2万石?2万貫?)の減封……一説には惟政の活躍を妬んだ僧侶の朝山日乗(ちょうざん にちじょう)が讒言したとも言われます。
惟政はこの仕打ちに抗議、出家剃髪して身の潔白を示しました。これより宗意(そうい)と号し、官職の紀伊守と合わせて紀伊入道などと呼ばれます。
その甲斐あってか、信長は元亀元年(1570年)に惟政を赦して名誉を回復。3万クルザードを加増しました。
惟政はこれに奉公の意欲を取り戻したのか、同年の姉川合戦では大いに奮闘したようです。
戦場にて壮絶な最期
その後も六角義賢(六角承禎)との和睦や三好三人衆との抗争を繰り広げるなど、惟政は文武にわたり活躍しました。
しかし元亀2年(1571年)8月28日、池田知正との戦闘(郡山合戦、白井河原の戦い)で討死してしまいます。
その遺体には多くの銃創や槍刀疵が刻まれ、首級を獲られる最期の瞬間まで闘い抜きました。
惟政は自領内の切支丹を手厚く保護したことで知られており、ルイス・フロイスをはじめ宣教師たちは、その死を大いに嘆いたと言います。ちなみに惟政自身は洗礼を受けておらず、禅宗の檀家でした。
惟政の死後、家督は嫡男の和田惟長(これなが)が継いだものの、元亀4年(1573年)に高山飛騨守・右近父子の謀略で追放されてしまったそうです。
惟政の墓は永らく不明でしたが、江戸時代中期の享保元年(1716年)ごろ高槻城内で発見され、伊勢寺(大阪府高槻市)に祀られています。
終わりに
今回は室町幕臣と織田家臣をかけ持ち?した和田惟政の生涯をたどってきました。
大河ドラマ「豊臣兄弟!」では、足利義昭の近臣として明智光秀(要潤)一人が存在感を放っている印象を受けます。
しかし惟政や藤孝らの忠義についてもフォーカスして欲しいところですね。
果たして今後どのような活躍が描かれるのか、注目していきましょう!
※参考文献:
- 奥野高広『足利義昭』吉川弘文館、1990年1月
- 久野雅司『足利義昭と織田信長 傀儡政権の虚像』戒光祥出版、2017年11月


