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『豊臣兄弟!』父・道三を討ち“親殺し”の烙印…信長が恐れた英傑・斎藤義龍(DAIGO)  再評価すべき生涯

『豊臣兄弟!』父・道三を討ち“親殺し”の烙印…信長が恐れた英傑・斎藤義龍(DAIGO) 再評価すべき生涯:4ページ目

義龍の死がもたらした運命の分岐点

信長を寄せ付けなかった斎藤義龍は、1561年(永禄4年)11月、33歳という若さで突然この世を去りました。死因は病と伝えられますが、詳しいことはわかっていません。

その前年の1560年(永禄3年)4月には次男・菊千代が早世し、さらに7月にはその母である正室・一条氏も病没。相次ぐ不幸に見舞われた直後の、義龍の急死でした。

しかし、この死は織田信長にとって決定的な転機となります。「最大の壁」が、突如として消えたのです。

義龍死去からわずか2日後、信長は木曽川を越えて美濃へ侵攻。防衛にあたった日比野清実・長井衛安が討ち死にするなど、斎藤方は痛手を被りました。

家督を継いだのは、わずか15歳の嫡子・龍興。ここから信長は一気に美濃攻略を加速させ、やがて稲葉山城陥落へと至ります。

龍興はしばしば「無能」と評されます。確かに父・義龍と比べれば、政治力・軍事力ともに見劣りしたのは否めません。しかし、その実像は「龍興が劣っていた」というよりも、「義龍があまりにも優秀だった」と見るべきでしょう。

義龍時代の美濃は、まさに彼一代の力量でまとめ上げられた政権でした。強力な求心力を持つワンマン的な君主の死は、そのまま体制の揺らぎを意味します。

歴史に「もし」は禁物です。それでも、もし義龍があと10年生きていたなら、信長の天下取りは、まったく異なる形を取っていた可能性も否定できないでしょう。

信長が最も警戒した男・斎藤義龍。その早すぎる死こそが、やがて「豊臣の時代」へとつながる歴史の歯車を、大きく動かしたのです。

※参考文献
横山住雄著 『斎藤道三と義龍・龍興』戎光詳出版

 

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