『豊臣兄弟!』父・道三を討ち“親殺し”の烙印…信長が恐れた英傑・斎藤義龍(DAIGO) 再評価すべき生涯:2ページ目
道三を滅ぼした義龍の親殺し。その真の理由とは
義龍による「父殺し」の理由については、古くからさまざまな説が語られてきました。
・義龍の母とされる深芳野(みよしの)は、道三の側室となった時点ですでに土岐頼芸の子を身籠っており、義龍は頼芸の子だったという説。
・道三は義龍を愚か者とみなし、弟の孫四郎・喜平次らを寵愛して廃嫡を企てたという説。
・義龍は自らの実父を頼芸だと信じ、追放された頼芸の仇を討つために道三を討ったという説。
・道三が濃姫(帰蝶)の婿・織田信長の器量を高く評価し、「我が子(義龍)は、いずれ信長の門前に馬をつなぐ家来になる」と語ったという逸話。
いずれも広く知られた説ですが、決定的な史料は存在せず、真相はいまだ定かではありません。
ただ一つ注目すべきは、義龍が一時期「范可(はんか)」と名乗ったことです。范可とは、中国・唐代にやむを得ず父を討った人物の名とされます。
この改名は、義龍がすでに「父との戦いは避けられない」と覚悟を固めていたことを示すものとも考えられます。すなわち、私怨ではなく「国のための決断」であると、家臣や国衆に示そうとしたのではないでしょうか。
当時の道三は、家臣団との関係が必ずしも盤石ではなく、領国経営にも不安が生じていたとみられています。実際、斎藤家中のみならず、美濃国内の有力国衆の多くが、次第に義龍へと傾いていきました。
その結果は、長良川の戦いで如実に表れます。義龍が約17,000の兵を集めたのに対し、道三の兵は約2,500。兵力差は歴然としていました。
それでも道三は退きませんでした。劣勢を承知のうえで野戦に打って出たその姿には、「討たれるならば正々堂々と」という道三らしい矜持が感じられます。
また、戦いの前夜、道三は信長に「美濃一国を譲る」との書状を送ったとも伝えられます。しかし、この信長宛書状の原本は現存しておらず、史実かどうかは判然としません。
道三にとって美濃は、父・長井新左衛門尉(西村勘九郎・松波庄五郎)とともに二代にわたる苦闘の末に手に入れた国でした。それを内紛によって失うことは、決して本意ではなかったはずです。
長良川での父子対決は、単なる「親殺し」ではなく、戦国という時代の苛烈な権力闘争が生んだ悲劇だったのかもしれません。

