『豊臣兄弟!』父・道三を討ち“親殺し”の烙印…信長が恐れた英傑・斎藤義龍(DAIGO) 再評価すべき生涯:3ページ目
単なる下剋上で終わらなかった男・斎藤義龍
道三を討ち、美濃国主となった義龍は、すぐさま兵を動かし、道三に味方していた諸将の平定に乗り出しました。その結果、恵那郡を除く美濃のほぼ全域を掌握します。
さらに、統一を進めつつあった織田信長の尾張にも圧力を加え、木曽川以北の葉栗郡などを支配下に置きました。その攻勢は、美濃国内にとどまるものではなかったのです。
一方で義龍は、内政の立て直しにも着手します。日根野弘就・竹越尚光・日比野清実・長井衛安・桑原直元・安藤守就の六名に連署状を出させ、政務を分担させました。これは家中の結束を図り、統治体制を安定させるための布石だったといえるでしょう。
さらに1557年(弘治2年)9月までに、それまで名乗っていた「范可(はんか)」を「高政(たかまさ)」へと改名します。この改名は、道三の影を振り払い、新たな美濃国主として歩み出す決意表明でもありました。
義龍存命中、信長が美濃に踏み込めなかった理由
斎藤義龍と織田信長は、濃姫を介して義理の兄弟という関係にありました。しかし、義龍が道三を討ったことで、両者は完全に敵対します。
美濃はまだ不安定。そう考えれば、信長がこの機に乗じて侵攻しても不思議ではありません。
ところが、信長は義龍の存命中、美濃へ本格侵攻していないのです。いや、より正確にいえば「できなかった」のです。
なぜ信長は動けなかったのか。その理由こそ、義龍という武将の実力を物語っています。
代表的な要因として、次の点が挙げられます。
・信長と不仲とされる弟・織田信行や庶兄・織田信広への調略。さらには犬山城主織田信清との同盟など、対信長工作を展開。
・浅井氏・六角氏と縁戚関係を結び、周辺勢力との連携を強化する。
・将軍・足利義輝に認められ、相伴衆に列せられる。
・左京大夫に任じられ、「一色」の名跡を継承。旧守護・土岐氏を上回る格式を獲得。
・国内の所領整理(貫高制の推進)を進め、統治基盤を固める。
つまり義龍は、外交・軍事・中央権威の獲得・内政改革を同時並行で進めていたのです。
矢継ぎ早に打ち出される施策と実行力。その総合力があったからこそ、信長は美濃へ決定的な一手を打つことができなかった。
義龍は、単なる「父殺しの梟雄」ではありません。信長を足止めした、紛れもない実力者だったのです。

