『豊臣兄弟!』12歳で初産、秀吉の養女も…まつ(菅井友香)が産んだ前田利家(大東駿介)の8人の子供の運命:3ページ目
五女・与免
天正5年(1577年)生~文禄2年(1593年)没(享年17歳)
与免と書いて「よめ」ではなく「とめ」と読みます。よく「女児はもう止めにして欲しい≒そろそろ男児が欲しい」という思いから、生まれた女児にトメと名づける習慣がありますが、まつは後二人子供を生むのでした。
1歳年長の浅野幸長(あさの よしなが)と婚約していましたが、結婚前に夭折しており、これといった記録は残っていません。
次男・前田利政
天正6年(1578年)生~寛永10年(1633年)7月14日没(享年56歳)
父・利家に従って秀吉に奉公し、慶長4年(1599年)に父から能登国に所領を分け与えられて大名となりました。
しかし慶長5年(1600年)に起きた関ヶ原の合戦では石田三成ら率いる西軍に与したため、敗戦後に改易(所領を全没収)されてしまいます。その後は京都の嵯峨に隠棲して宗悦(そうえつ)と号しました。
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やがて慶長19年(1614年)に勃発した大坂の陣では、徳川家康と豊臣秀頼の両陣営から誘いを受けますが、どちらにも与さず中立を決め込んだそうです。
そして豊臣家の滅亡後、家康から10万石の大名として取り立ててやろうと打診がありました。豊臣家に与しなかった態度を気に入ったからと言われています。
ここで普通なら喜んで飛びつくところですが、利政は「中立を決めたのは、豊臣方に与したくなかったからであり、徳川殿に忠義を尽くすつもりはない」と辞退しました。よほど権力抗争に巻き込まれたくなかったのでしょう。
また異説としては実兄の利長が、関ヶ原で自分を裏切った利政の大名復帰を許せなかったからとも言われています。
そして寛永10年(1633年)に利政が世を去ると、子供の前田直之(なおゆき)は加賀藩主の前田利常(利家の四男で利長の養子)に仕え、利家とまつの血脈を後世に受け継ぎました。
六女・千世
天正8年(1580年)5月7日生~寛永18年(1641年)11月20日没(享年62歳)
千世(ちよ)は末っ子だったため、生母のまつから最も可愛がられたそうです。
18歳となった慶長2年(1597年)、秀吉の命令で細川忠隆(ただたか。細川忠興嫡男)と結婚します。
しかし関ヶ原の合戦が始まる直前、戦火を恐れて前田家へ避難したことを咎められ、離縁させられてしまいました。
慶長10年(1605年)に前田家重臣の村井長次(ながつぐ)と再婚。子供はいなかったので織田長光(ながみつ。信長弟・織田長益の孫)を養子にとります。
慶長18年(1613年)に夫が先だってしまうと、菩提を弔うために出家して春香院(しゅんこういん)と号しました。
終わりに
今回は利家とまつ夫婦の間に生まれた子供たちを一挙に紹介してきました。昔は多産多死が当たり前だったと言われますが、一人の女性が8人も出産するのは並大抵ではないでしょう。
実にバイタリティあふれる利家とまつの夫婦ドラマも「豊臣兄弟!」における見どころの一つ。これからも楽しみに見守っていきたいですね。
※参考文献:
- 岩沢愿彦『人物叢書 前田利家』吉川弘文館、1988年10月
- 小和田哲男 編『戦国の女性たち 16人の波乱の人生』河出書房新社、2005年9月
- 花ヶ前盛明編『前田利家のすべて 新装版』新人物往来社、2001年10月

