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『豊臣兄弟!』12歳で初産、秀吉の養女も…まつ(菅井友香)が産んだ前田利家(大東駿介)の8人の子供の運命

『豊臣兄弟!』12歳で初産、秀吉の養女も…まつ(菅井友香)が産んだ前田利家(大東駿介)の8人の子供の運命:2ページ目

三女・摩阿姫

元亀3年(1572年)生~慶長10年(1605年)10月13日没(享年34歳)

摩阿姫(まあひめ)は11歳となった天正10年(1582年)に柴田勝家の家臣・佐久間十蔵(さくま じゅうぞう)と婚約、越前国北ノ庄城(福井県福井市)へ移住しました。

しかし天正11年(1583年)に起きた賤ヶ岳の合戦で敗れた勝家・十蔵主従が自害してしまいます。この時に侍女のあちゃこが彼女を救出し、両親の元へ戻りました。

14歳となった摩阿姫は天正13年(1585年)に秀吉から見初められ、大坂へ連れられてその側室になったそうです。

豊臣家中では加賀殿・かゞ殿(かがどの)と呼ばれ、後に京都の聚楽第へ移り住んだことから聚楽天主(じゅらくてんしゅ)とも呼ばれました。

文禄3年(1594年)に伏見城(京都市伏見区)が完成すると、城内に設けられた前田邸内へ預けられます。側室を実家へ住まわせることは異例でしたが、これは摩阿姫をダシに利家と密談するための措置だったそうです。

慶長3年(1598年)3月に催された醍醐の花見では第5位の妻として扱われたものの、余命いくばくもない秀吉の存命中に離縁しました。

秀吉の死後に公家の万里小路充房(までのこうじ あつふさ)と再婚。一人息子(後の前田利忠)を生みますが、後に離縁して母子ともに前田家へ戻ります。

そして慶長10年(1605年)に34歳で世を去り、戒名を祥雲院殿隆室宗盛大禅定尼(しょううんいんでん りゅうしつそうせい だいぜんじょうに)と名づけられました。

四女・豪姫

天正2年(1574年)生~寛永11年(1634年)5月23日没(享年61歳)

豪姫(ごうひめ)は生まれて間もない2歳の時に秀吉の養女に出され、秀吉と寧々から秘蔵子として可愛がられたそうです。

300人もの側室を抱えた豊臣秀吉が親バカぶりを発揮した愛娘・豪姫の正体とは?

サルのように陽気な性格と持ち前の機転で、天下を支配した戦国武将・豊臣秀吉。築城や城攻めの天才の異名を持つ人物であり、ときには女子供を厭わず虐殺するなど冷酷な一面を持ち合わせていました。今回は、…

15歳となった天正16年(1588年)に秀吉の猶子であった岡山城主・宇喜多秀家と結婚。そのため備前御方(びぜんのおんかた)、後に南御方(みなみのおんかた)と呼ばれました。

秀家との間には宇喜多秀高(ひでたか)・宇喜多秀継(ひでつぐ)・佐保姫(さほひめ。貞姫、理松院)を出産しますが、元から身体が弱く出産の都度大病をしていたそうです。

これを「キツネが憑りついたせい」だとして、秀吉は石田三成と増田長盛に命じて大々的にキツネ狩りを実施させるほどの親バカぶりを発揮しました。また利家も別個にキツネ憑きを落とす儀式を実施しています。

やがて秀吉・利家が世を去った後の慶長5年(1600年)、世にいう関ヶ原の合戦で夫の秀家は西軍に与して敗れてしまいました。

秀家は薩摩国へ逃亡して島津家に匿われていましたが、慶長7年(1602年)に引き渡されて息子たちと一緒に八丈島(東京都八丈町)へ流刑となってしまいます。

宇喜多家が没落した後、しばらく寧々に仕えていましたが、思うところあって洗礼を受けました。キリシタンとしての名前はマリア、慶長12年(1607年)ごろに実家へ帰ります。

そして寛永11年(1634年)に61歳で世を去り、樹正院殿命室寿晃大禅定尼(じゅしょういんでん みょうしつじゅこう だいぜんじょうに)と戒名を贈られました。

3ページ目 関ヶ原の合戦で西軍に寝返った次男・前田利政

 

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