朝ドラ「ばけばけ」事件に巻き込まれ逮捕、台湾へ…庄田多吉(濱正悟)のモデル・本庄太一郎の生涯:3ページ目
国内の教育現場での再出発
太一郎は外地の統治機構を離れて国内の学校現場への復職を目指します。
大正4(1915)年4月、太一郎は長野県立松本中学校の校長に着任。しかしここでも再び問題が起こります。
規律を重んじる太一郎は、統一主義に基づいて生徒たちを管理する方針でした。これに基づき政党政治を否定する言動を取っていきます。
この「中心へ集約する」姿勢は、学校の自治的空気や、生徒側の反発と衝突しやすい。松本での批判点とも重なり、自治志向を本荘が否定した可能性が述べられています。
生徒たちが反発した結果、校長排斥運動が勃発しました。
新聞のインタビューには「生徒の層ストライキをくった」と記載。結局、太一郎は退職へ追い込まれます。
校長としての統率が、当時の生徒文化や地域世論と噛み合わなかった。事件の背後には、単なる人間関係ではなく、「教育を上から一つに束ねたい」思想と、「学校を自分たちの場として守りたい」側の緊張があった、と読めます。
松本を去った太一郎は郷里へ戻ります。
大正6(1917)年、太一郎は第13回衆議院議員選挙で松江市から無所属で立候補。しかし結果は落選で、有効投票数689票のうちは260票だった、とされています。
選挙においては、後藤新平の後援を受けていました。
学校現場で反発を受けた「統一」路線を、今度は政治で通そうとしたようにも地元での「信用勢力は一向に振るはない」とも書かれ、足場の弱さがにじみます。
ただし、落選は終わりではありませんでした。
大正8(1919)年、太一郎はそれまでの経験を買われて神戸市教育課長に着任。大正14(1925)年まで奉職します。
太一郎は小学校舎拡充計画を推進。加えて旧「学区」時代の教員を一掃し、自身が主導の人事を強行して市議会で批判が上がります。
しかし神戸市は太一郎を問題視しませんでした。
学区を廃止して教育行政を一元化するという市の方針に、彼の強権的運用が合致していたようです。
松本で火種になった「統一」志向が、都市行政の側ではむしろ歓迎され、成果として回収されたのは一種の皮肉的結果でした。
昭和2(1927)年1月11日、太一郎は東京で病没。享年65。教育行政に行き、その職分に全てを捧げた生涯でした。
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