【衆院選】違和感に気づいても、なぜ人は流される?150年前に福澤諭吉が警告した“世論の危うさ”:3ページ目
現代日本に重なる福澤諭吉の鋭い警告
まもなく衆議院選挙が行われます。最新(2月2日現在)の報道では、「自民党が単独過半数を獲得しそうだ」「与党で300議席を超える可能性もある」といった見方が相次いでいます。
しかし、ここ数年の政治情勢を振り返ると、多くの人が強い違和感を抱いていることも事実です。「このタイミングでの解散は不自然ではないか」「本来は物価高への対策が最優先ではないのか」「政治とカネの問題は、結局うやむやになっていないか」。こうした声は、世論調査や街頭インタビューでも頻繁に聞かれます。
ところが、選挙が近づくにつれて示される支持動向を見ると、これらの不満や疑問が、そのまま投票行動の変化につながっているとは言い切れません。
違和感を覚えながらも、最終的にはこれまでと同じ選択肢に戻っていく……。ここに、現代日本が抱える「疑問と行動のズレ」が浮かび上がります。
この現象を、明治時代に福澤諭吉は鋭く指摘していました。
『文明論之概略』の中で福澤は、人々が政治に関心を持ち、意見を表明すること自体は文明の進歩だと評価しています。
しかし同時に、その判断が感情や習慣、周囲の空気に流されるようであれば、「世論」は社会を良い方向へ導く力にはならないと警告しました。
「不満はある。」「疑問もある。」それでも、「変えることへの不安」や「皆と同じでいる安心感」が勝ったとき、人々は結局、現状を追認してしまいます。福澤は、こうした心理こそが民意の未成熟さであり、民主政治における最大の危険だと考えていました。
現代の日本でも、多くの有権者は物価の上昇や生活の苦しさ、政治への不信感に強い問題意識を持っています。
それにもかかわらず、行動としては大きな変化を起こさない……。この矛盾こそが、福澤の警告が今なお通用していることを示しているように思えます。
世論としては不満が噴き出す。しかし最終的な選択は、慣習や空気に支配される。それは、表面上は民主的でありながら、理性よりも感情が政治を動かしている状態にほかなりません。
福澤諭吉が本当に恐れていたのは、「自分で考えているつもりで、実は流されていく民衆の姿」でした。そして結果として、それが権力者の独裁に繋がっていくのです。
「世論が成熟しないまま影響力だけを強めれば、政治は改革されるどころか、同じ問題を繰り返し続ける。」
福澤諭吉はその危険性を、150年前にすでに見抜いていたといえるでしょう。
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※参考文献
福澤諭吉著『文明論之概略』岩波書店

