昭和の幕開けを揺るがしたマスコミの大誤報「光文事件」――昭和改元で起きた“世紀の誤報”の真相:2ページ目
「昭和」に決まっていた
さらに、光文という案が根も葉もない完全なデマだったわけではなかったのも微妙なところです。
公的記録『昭和大礼記録』によると、内閣案の五つの候補の中に「光文」が含まれていたことが確認できます。
つまり、光文は確かに候補の一つではあったのです。
しかし、元号案の作成を主導したのは宮内省であり、宮内省がまとめた第1案から第3案までのどこにも「光文」は登場しません。
一方で「昭和」はすべての案に含まれており、最初から最有力候補だったことがわかります。
この事実を裏付けるのが、枢密院議長・倉富勇三郎の日記です。
1926年12月8日、倉富は宮内大臣・一木喜徳郎と会談し、一木から「最終候補は昭和・元化・同和である」と伝えられています。
また、元老の西園寺公望や内大臣牧野伸顕も「第一案(昭和)が良い」と述べていたと記録されています。
この段階で、新元号は事実上「昭和」に決まっていたのでしょう。
つまり、光文事件は「光文が本命だったのに差し替えられた」という話ではなく、情報統制下で新聞が誤った断片情報を“確定情報”と誤認した結果だったと考えられます。
実際、倉富の日記にも、改元詔書の字句調整以外に元号差し替えの痕跡はありません。
