第46回放送「曽我祭の変」で初登場し、個性的な演技で話題になった「グニャ富(ぐにゃとみ)」こと中山富三郎(なかやま とみさぶろう)。
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亡き恋川春町(岡山天音)の菩提を弔うため、チーム写楽は「平賀源内(安田顕)が生きている」かのような役者絵を世に送り出しました。躍動感あふれる謎の絵師登場に、源内生存説が世に巻き起こり、傀儡好き…
自分の容姿をあからさまに描かれたことで怒っていましたが、彼は一体何者だったのでしょうか。
今回は写楽の絵によってその存在が後世に伝わった、初代中山富三郎の生涯をたどってみたいと思います。
女性らしさを極めた結果……?
中山富三郎は宝暦10年(1760年)、敵役として有名な歌舞伎役者・市川幾蔵(いくぞう)の子として誕生しました。蔦重より10歳年少ですね。
元の名は中山松兵衛(まつべゑ)。初代中山文七(ぶんしち)・四代目松本幸四郎に弟子入りして芸道を歩み、17歳となった安永5年(1776年)に大坂の嵐七三郎座(あらし しちさぶろうざ)で初舞台に立ちました。はじめは若女房、やがて安永7年(1778年)には若女方へ進みます。
やがて21歳となった安永9年(1780年)に父と一緒に江戸へ下り、市村座で出演しました。巧みな演技力から人気を高め、寛政2年(1790年)には立女方に抜擢。江戸でも上方でも名声を勝ち取ったそうです。
そんな富三郎は庶民生活や風俗などをテーマとした世話物(せわもの)を得意とし、傾城(遊女)役や世話女房の役で高く評価されました。
